こつんと頭をペンで小突かれた。
「いたっ」
 それで、リュウははっとした。
 どうも頭がぼんやりしていて、ものを考えるという作業がうまくできないのだ。
 慌てて顔を引き締めると、隣でプラント経費についての書類の束と格闘しているジェズイットが、こそこそと話し掛けてきた。
 執務室の隅で、資料の山の前にぺたっと座り込んで、ひとつひとつ目を通しているクピトに聞こえないように、執務中の私語は厳禁であったので、見つかるとまたどやされるのだ。
(ぼんやりしてんなよ、二代目。見つかるとお小言だぞ)
(あ、ご、ごめん……)
(なあ、ひどいと思わないか。ちょっとアルコールのせいで、ちょっと美人のおねーさんの尻に手が勝手に吸い付いたくらいで、今朝まで拘置室送りだぞ、地下で)
(……自業自得だよ。そのうち地上に専用の牢屋でも作ってもらった方がいいんじゃない)
(だってさあ、仕方ないよなあ、他より大きいとやっぱり手がぶつかるわけで……リンの尻)
「リンに!?」
 驚いて、リュウはがたんと立ち上がった。
 それから、あ、まずい、と思い当たって、そおっとクピトを見た。
 ジェズイットは知らないふりを決め込みながら、真面目な顔なんて作ってペンを走らせている。
(ず、ずるい……)
 リュウはそう思ったが、クピトはどうやら書類に夢中であるらしく、気にしているふうでもなかった。
 リュウはほっとして、座り直した。
(……リ、リンに手を出したの?! それで何で生きてるの!?)
(……うーん……いろいろ、生きてるというか、ぎりぎりというか……メンバーじゃなかったら、死んでた)
(そ、そこまでして……)
(お子様にはわからんのだ。大人のたしなみってやつだ)
(……おれ、そんなのわかるようになりたくない……)
 リュウは呆れかえって、溜息をひとつついてから、ジェズイットに忠告しておいた。
(……ニーナに痴漢なんてしたら、ほんとに怒るからね)
(しないしない。なんだ、リンのことでは怒らないのか?)
(だっておれが怒らなくても、ちょっと……ジェズイットが、可哀想かもしれない、それ……)
 今朝からどうも満身創痍だと思っていたら、これだ。
 痴漢行為に同情する訳ではないが、ちょっとやりすぎかなあ、なんてことは思う。
(でもジェズイットが悪いんだからね。ちゃんとリンに謝った?)
(いや、後悔はない)
(……死んでいいよ、それ)
 リュウは頭を抱えながら、それほんと、どうにかならないの、と言った。
(なんでお尻なんて触るの?)
(好きだから)
(ええと、その、そんなふうに当たり前みたいに言われると、おれもどうしたらいいか――――て、え?)
 リュウはびくっとした。
 なんだか隣から手が伸びてきて、尻を緩く撫でたのだ。
(うわ、ちょっと、なにするんだよ?!)
(尻を撫でてる)
(真面目に答えないでよ! ちょっ、うわ、や、や、や、やめてっ……!)
 ぞわぞわして、リュウはぎゅっと目を瞑って顔を伏せた。
(うん、5点満点中4点だな。触り心地良し、柔らかいし、形もいいし、あとはボリュームが……ていうか、リン並の爆尻はめったにいないんだよなあ……)
(勝手に人の尻に変な点数つけないでよ! って、わ、ほ、ほんとにやめて。だ、駄目だったら……!)
(あ、4.5点をやろう。反応がちょっと良かった)
(こ、この痴漢、変態ー! 減給して拘置室に送ってやるんだから!)
(減給分で触ってオッケーなのか)
(そういう揚足を取った言い方は……あの、ちょ、ちょっと駄目だって! 今日は、ほんとに……)
 リュウは顔を真っ赤にして、やだよう、と言った。半泣きだ。
(……うっわ、可愛い反応。今ので0.2点やろう。頑張れ二代目、あともうちょっとで満点だ)
(い、いらないよ、そんなの! ……あ、うー……)
 ちょっと涙が出てきた。
 あんまり情けないのと、そうやって触られて今朝の出来事を思い出してしまうのと、理由は半々だ。
 昨晩ボッシュに呼ばれて部屋に行って、それから後のことは断片的に思い出すだけで、死にたくなるくらい恥ずかしい。
 ボッシュは乱暴で、こんなやらしい触り方なんてしてくれなかったけれど、それでもなんだか思い出してしまって、リュウはぎゅうっと目を瞑った。
 書類を引っ掻いていたペンを握り締めて、変な気分を抑え込もうとした。
 でも、無理だった。
 ボッシュに抱かれて、それで今朝からまともとは言えないけれど、執務に掛かれているということが奇蹟みたいだ。
(い、いや……)
 小さな声で、やめてよう、と言いながら、リュウは小さく震えた。
 ジェズイットの手はコートの中まで入り込んできて、さわさわとリュウの尻を撫でた。
 ぴくっと震えて、リュウは口元を押さえた。
 なんだか、油断すると変な声を出してしまいそうだったのだ。
(そう言えば、女になっちまったんだよな、二代目。うん、そっちのがいいぞ。いろいろ価値観と対決させずに尻とか触ってやれるし)
(バ、バカ……うう、やだ、やだぁ……)
 ぐしゅ、とリュウはほぼ泣き出してしまって、やめてえ、と懇願した。
 今朝方までボッシュが触っていた場所を辿る手で、なんだかおかしな感触ばかり思い出してしまって、やらしい気分になってしまう自分に、リュウはげんなりしてしまった。
 おれってこんなやらしい人間だったっけ、と自問した。
 答えは返ってこなかったが。
 涙で霞みはじめた視界の端で、クピトが杖を無造作に握り締めたのが見えた。
 そして、視界が真っ赤になって、







 「リュウの手」が、不埒な動きをしているジェズイットの腕をがしっと掴んだ。
『……リュウに、なにをするんだ……?』
「いや……なんでも、ちょっとした悪ふざけってやつで」
 ジェズイットは、げ、という顔をしてリュウを、正確には真っ赤な目をしているリュウの中にいるものを見た。
『……今度やったらぶっ殺すからな』
「気をつけます」
 まったくどいつもこいつも、と呟いて、それからすうっと目は元の青色へと戻っていき、リュウはほっと一息吐いた。
(あの、ありがとう、アジーン……)
(あのなあ、オマエは無防備過ぎるんだよ。そこのトンガリとかボッシュとかさ、ちゃんと気ィつけなよ、リュウ。リンク中は俺の身体でもあるんだからさ、気持ち悪くてしょうがないの)
(うん、ご、ごめんね?)
(あ、朝からずっと、腰痛いし……チェトレ、あのバカ、後でお仕置きしてやる……)
(……?)
 良く分からないながらそこで話は途切れて、リュウはごしごしと目を拭って、ジェズイットに聞いてやった。
(だ、大丈夫だった、腕? 焼けてない?)
 無茶苦茶なことをされはしたが、悪ふざけの延長でドラゴンに脅し付けられたのは少しやりすぎだっただろうか、とリュウは少々申し訳なく思った。
 まあ、ふざけ過ぎの自業自得だという気もしたが。
(とりあえず、生きては、いる……)
 ドラゴンがあまり得意ではないと見えて、ジェズイットはおちおち痴漢もできないと嘆いた。
(だからしなくていいってそんなの)
 全然懲りてないみたいだ。
 リュウは溜息を吐きながら、がっくり項垂れた。
「……もういいんですか?」
 ふいに声が掛けられて、リュウは慌てて顔を上げた。
 クピトが、重量のありそうないつもの杖でとんとんと肩を叩きながら、まったくもうしょうがありませんね、と言った。
「あ、う、うん。あの、うるさくして、ごめんね……」
「まったくです。ぼくは耳がいいんですから、少し静かにして下さい。……あ、ジェズイット。ちょうど今、君の半年先までの給料を50%カットしたところです」
「なにー!? ちょっと待て、半分はやり過ぎだろ!!」
「上司にセクハラなんて、クビを切られないだけでありがたいと思って下さい。ドラゴンが止めなきゃぼくが殴り倒してましたよ。竜ならまだ良いものの、代行がここにいたら間違いなく死んでますよ」
「ああ……あれは、なあ……」
 胡乱にリュウを見ながら、ジェズイットはお手上げというふうに腕を広げた。
「いたら怖くてしないし」
「……だったらいつもしないで下さい」
「よお、知ってるか、リュウ。あいつおまえが死んでる間、毎日顔見に行ってたんだぜ」
「え?! う、嘘! どうしよう、おれ、変な寝言とか言ってたら……!!」
「……だから死んでたんでしょう、あなたは」
「……でも、何しに来てたの? おれ、死んでたのに」
「ああ、そりゃあ……」
「……そろそろ仕事して下さい。それに関しては、ぼくらの口から言うのは痛過ぎますから」
「……あ。うん、そうだね……」
 リュウはふにゃっと笑って、少し落ち込んだふうに、ふうっと溜息を吐いた。
(そんなにおれのこと、憎んでたんだね、ボッシュ……)
 憎しみを風化させることさえ、許せなかったのだろう、きっと。
 毎日リュウの死骸を目に焼き付けて、ボッシュはそうやって消えそうになる憎しみを保っていたのだろうか?
 この身体が原型を保ったままそこにいたのは、失敗だったようだ。
 粉々に砕けて、消えてしまわなければ、彼の怒りはきっと消えない。
(……次は、そうしよう……)
 こっそりと、リュウはそう思った。
 1000年あと、ボッシュがリュウを殺してくれるその時には、そうしよう。そう思った。
 それまでボッシュのそばにいても良いらしい。
 それは幸せなことであるはずだったが、リュウは何故か、ひどい痛みを胸に感じた。
(おれの、心は……) 
 それまで持つだろうか。
 毎日どんどん好きになって、その度に諦めと絶望が胸を打つのだ。
 ボッシュがリュウのことなんて、好きになってくれるはずがない。
 それでもリュウは愛して欲しかった。
 許されないことに、それは贖罪の気持ちよりも、大きくなっていった。
 ボッシュと共にいると、どんどん大きくなっていく感情だった。
 自分が壊れてしまいそうだった。
 張詰めた糸はぎりぎりのところで切れずにいた。
 ただ絶望を与える他ならぬボッシュがそこにいることで、リュウはそれをどうにか保っているのだった。
 彼が好きだ。
 そして、そばにいられることが幸せだ。
 ボッシュがそばにいるかぎり、リュウは笑っているだろう。
 いつもどおりでいるだろう。
 本当に恐ろしいのは、憎むことすら飽きた彼が、リュウの手を本当に振り払ってどこかへ行ってしまうことだ。
 それまではリュウはリュウのままでいられるだろう。まだ。







 まさかボッシュがリュウを愛してくれていて、毎日リュウの遺骸を抱いて生きてくれていたなんて、そんなことがあるわけないのだ。














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