(ど、ど、ど、どういう顔をすればいいんだよー!)
思わずボッシュから逃げ出してしまって、リュウは真っ赤な顔を押さえて、あああ、とうめいた。
(に、逃げちゃって、変に意識してるってバレバレじゃないか! そりゃ、は、はずかしいけど、何でもない顔しておはようって言おうって決めてたのに……! 起きたら一人でボッシュいないし、避けられてるみたいに朝から遭わないし、なのにこんなところでこんなとこ見られるなんて……!)
またじわじわ涙が零れてきた。
あんまりの情けなさのせいだ。
(きっと、馬鹿だと思われてるう……こ、子供に泣かされるなんて、あんなの……)
みんな物珍しいのか、それとも単に信じられないせいなのか、べたべたとリュウの身体に触るのだ。
まあ数ヶ月前まではれっきとした男性だったのだから、疑って掛かりたくなるのもしょうがないだろう。
(お、おれのこと、珍獣みたいに……ひどいよ、みんな……)
似たような目には遭った。
アジーンとリンクした後、空を開けるまでの道のりで、誰も彼もが――――レンジャー、戦闘を見ていた子供、二ーナもはじめは怖がっていたし、リンもそうだった。
ボッシュに至っては、怯えた目で化け物め、なんて吐き捨てた。
あの時の衝撃は、多分一生忘れないだろう。
ボッシュに化け物呼ばわりされたこと、それより何より、彼があんなに怖がって震えて逃げて――――絶対にそんなことをする人じゃないのに。
あの時ばかりは、ああ、おれはほんとにもう人間じゃなくなってしまったんだなあ、そう思ったのだ。
そうやって、誰も彼もの怪物を見る目がリュウに向けられた。2年前のことだ。
(あ、あれよりかは、いくらか、ましだけど)
リュウはふうっと溜息を吐いて、いや、とぶんぶん首を振った。
(あ、あれよりひどいよ……! へ、へんなところなんて触られなかったし、こんな恥ずかしい身体なんて……き、きっと気持ち悪いとか思われてる。絶対そうだよ、ボッシュだって……)
ふっと彼の顔を思い浮かべて、リュウは少し赤くなりながら、あ、そんなこともないのかな、と思った。
ボッシュの言葉を思い出した。
ローディ、これ以上悪くなりっこない――――その言葉で、ふっとリュウは肩の力が抜けてしまった。
(そうだよね……自意識過剰とか……おれ、最悪がちょっと、すごく最悪になっただけじゃ……ていうか、駄目だよそれ、全然!)
また真っ赤になって、頭を抱えて、リュウはうめいた。
人気のないところだから、こんな不審な行動を取っていても、誰も何も言わない。
リュウは顔を上げて、はあ、と溜息を吐いた。
リュウが今いるのは、図書館の奥まった一室だった。
周りには『貸出禁止』のラベルが貼られた分厚い本が、いくつも並んでいる。
いわゆる旧世界の本を中心に、地下世界で禁書として燃やされた種類の本の原本など、貴重なものばかりだ。
セントラルに入室を申請しなければ、ここには入れないことになっている、らしい。
実の所は入口に記名帳が置かれているだけで、割と誰も気にせずに入室はしているようだが、あまりの難解さから、覗く者もほとんどいないようだ。
旧世界の言語なんて、余程高等な教育を受けた者くらいしか解読は不可能なのである。
ハイディーの一握りと、それから専門的な人間くらいだ。
クピトは読めた。ジェズイットは基本的な文章は読み書きできるらしいが、元々本というものが好きではないみたいで、あまり読んでいるところを見たことがない。
ボッシュも読めた。彼は統治者になるべく一通りのことは叩き込まれたそうだ。
そもそも彼は本が好きなのだ。
セントラルの自室には貸出禁止の本が無造作に本棚に並べられていたし、レンジャー時代もロッカーの中には常に二三冊の本があった。
(……変なポスター貼ったりしてたけど)
女の子が、その、やらしいポーズを取ってるやつだ。
リュウは知らず自分の身体と比べてしまって、あああ、とまた溜息を吐いた。
(な、何やってるんだよ、おれは……男だし。こんな身体、だいじょうぶすぐに戻る……)
自分にそう言い聞かせて、リュウは変な気持ちを振り払うように、ふるふると頭を振った。
(本……旧世界の。ううん、おれも読めた方がいいのかな……オリジンだし、一応……)
手近にあった棚から、適当に本を一冊抜き出した。
何だって良いのだ。どうせ読めないんだから。
「わあ……」
ぼろぼろのカバーを捲って、リュウは感嘆を漏らした。
まず、鮮やかな色が目に飛び込んできた。
ページはひとつひとつがかちかちに固められていて――――そうでもしなければ、1000年で色は抜け落ちてしまったろう――――それは絵本と呼ばれる種類のものだった。
何故こんなところにそんなものがあるのかは知らない。
誰かが間違って入れてしまったのだろうか、と訝ったのだが、背表紙にはきちんと『貸出禁止』のラベルが貼られていた。
貴重な資料らしい。
「これ、虹だ……」
7つの色をしたアーチ状のものが空に掛かっている。
そう言えば、何度か見たことがある。
雨上がりの空の向こうに見えるものだ。
それがどういう現象なのか、いまだはっきりとは知らない。
雨が上がって現れて、すぐに消えてしまうのだ。
プラントで誰かに聞けば教えてもらえるのかもしれないが、そんな疑問で仕事の邪魔をするのも気が引けてしまう。
絵本は、そう厚みもないものだった。
主人公らしい女の子が、虹を構成する色のアーチをひとつひとつ超えて行くという、そんな話だった。
その先に何があるのかは、書かれていたのかもしれないが、リュウにはわからなかった。
文字が読めなかったのだ。
全て旧世界の文字で書かれていて、ああ、これ1000年前の絵本なんだ、と気が付いた。
ならこの書庫にあるはずだ、とリュウは納得した。
「へえ、虹が好きなんだ」
「うん、綺麗だよね。たまにしか出ないから、まだあんまりちゃんとは見たことないんだけど」
にこ、と笑いながら返事をして、リュウははっとした。
昔から彼に話し掛けられた時の条件反射でなんでもないふうに答えてしまったが、後ろにはボッシュがいた。
「ボ、ボ、ボ、ボッ、シュ……!」
「……なに、その反応。いきなり逃げたりして、気分悪いよ、リュウ」
「あ、あの、ごめんなさい。じゃ、じゃなくって、えっと、あのその……!」
また顔を真っ赤に染め上げて、リュウはボッシュから離れようと、腰を浮かせた。
が、すぐに捕まってしまった。
ボッシュはとても不機嫌な顔をして、リュウの肩を掴んで押さえ付けている。
「なに? 逃げようっての?」
「だっては、は、はずかしい……し、死んじゃうー……!!」
「恥ずかしいくらいで死なないだろ」
「な、なんで?! 追い掛けてきたの、もしか、して……」
「逃げられるってあんまり好きじゃないし、ガキの相手なんてしてらんないし。俺子供嫌いなの知ってるだろ。うるさいし、馬鹿だし弱いし、すぐ泣くし」
「う、うん。ごめんね」
リュウはとりあえず謝って、俯いて、あのね、と切り出した。
「あの……き、昨日おれ、変なこととか、言ってなかった?」
「……なに。覚えてないの」
「う、う……あの、途中から、上手く思い出せなくて、あの……ごめんなさい……」
ボッシュが不機嫌そうに、リュウの肩を掴む手に力を込めた。
「ご、ごめん……あの、い、痛いよ……」
「……そんなに、良かったんだ?」
「う」
そう切り返されるとは思わなかった。
リュウは真っ赤なまま、ほとんど酸欠みたいになりながら、力なくこくんと頷いた。
「……ん……きもち、よかった……」
どんどん声が尻窄みになっていって、最後の方は上手く聞き取れなかったろう。
ボッシュはちょっと驚いたような顔をしていたが、あ、そ、と気のない声で言った。
(あ、やっぱり……)
ボッシュのどうでも良さそうな調子を見て、リュウは少しばかり落ち込んでしまった。
気にしているのは、馬鹿みたいなのだろうか。
ボッシュにとっては、あんなのなんでもないことなのだろうか。
良くある、ことだったり……。
(や、やだ、そんなの……)
そうやってボッシュにリュウだけを見て欲しい、一人占めしたいなんて思う自分の我侭さが、リュウは嫌になってしまった。
「……何泣きそうな顔してるんだよ」
「う……な、なんでもないよ」
ほんとに何でもない、大丈夫、と言いながら、リュウはにこっと笑った。
「あ、の……あのね」
「なに」
「あの……あ、ありがとう、ボッシュ。おれなんかに、その、触って、くれて……」
「暇つぶしだから」
「あ、そ、そうだよね、うん。あはは、そう、だよね……」
その言葉が、ほんとはオマエじゃなくても全然良かったんだ、と言っているようで、リュウはぎゅっと胸が苦しくなってしまった。
(だから、ボッシュはおれのものじゃないんだから……)
変な独占欲なんて、持ってはいけないんだ、とリュウは自分に言い聞かせた。
「へ、変な身体で、ごめんね……で、でもあの、ボッシュ」
「ん?」
「こ、こういうの、おれなんかにして良かったの? 好きな人にしなくちゃ、その……」
「……めんどくさいね、オマエ。関係ないだろ」
「だ、だって、嫌いなおれにするのって、おかしいよ。あ、あの、ボッシュ」
「何だよ」
「す、好きな人とか、いるの……?」
ぎゅっと目を瞑って、リュウは勇気を振り絞って、聞いてみた。
それがずっと聞きたかったことだ。
いないよ、なんて言ってくれたらどんなに良いだろうなんて思って、リュウは益々自分が嫌になってしまった。
いないなら、ボッシュが誰も好きなんかじゃないなら、リュウはそばにいたって良いだろうか。
1000年憎まれて、それだけじゃないかたちで、リュウだけはボッシュを愛しながら、ずうっとそばに――――
だが、その夢想はすぐにびりびりに破られてしまった。
「……いるよ」
「え……?」
リュウは呆然と、顔を上げた。
ボッシュはリュウの方を見ないまま、背中を向けてしまって、言った。
「もう、十年以上になるっけ……ガキの頃だからさ。会ったのは、親父の下で修行してた時だ。下層の子で、迎えに行って失恋した」
「あ、あはは……う、嘘だあ、ボッシュが、そんな……」
失恋なんて、とリュウは笑おうとした。
だけど、心の中では全然違うことを考えていたのだった。
ボッシュが誰か、好きになるなんて、嘘だ、と。
(おれ、最低だ……)
昔のことだ、なんて自分に言い聞かせていることが、リュウは情けなかった。
だけど、ボッシュはリュウの僅かな希望を、すぐにぐしゃぐしゃに踏み躙ってくれた。
「……でも、今でもずっと好きだよ」
「あ……はは、そ、そう、なんだあ……」
ボッシュは珍しく良く喋った。
リュウはどうにかにこにこしながら、呆然と聞いていた。
本当は、聞きたくはなかった。
ボッシュは穏やかに目を閉じていた。
少し微笑していた。
ボッシュにそんな顔、向けられたことは、リュウにはなかった。
そんな優しい顔を向けられたことは、リュウにはなかった。
いつもそこにあるのは、憎しみと蔑みの目だけだ。
それは、リュウが望んだものだったはずだ――――そうすれば、ボッシュはどんなかたちであれ、リュウを見てくれていたのだ。リュウだけを。
しかし今のボッシュの目には、リュウに向けられるべき憎しみの光がどこにもなかった。
あるのは純粋ないとおしさと、優しさだった。
リュウにはきっと、一生向けられることがないものだ。
ボッシュは続けた。
リュウが聞きたくない言葉を、見たくない表情で、彼は綴ったのだ。
「今は、すごく可愛い子になっててさ。また迎えに行って――――そしたら、その時は、」
ぱあん、と乾いた音が響いて、リュウはびっくりしてしまった。
手のひらがひりひりして、ボッシュの驚いたような顔が目に映った。
そうしてようやく、リュウは気付いた。
ボッシュの顔を、ひっぱたいてしまったのだ。リュウが。
「あ……」
それを理解して、リュウは青くなった。何をやっているんだ。
せっかくの綺麗なボッシュの顔に、赤い痕がくっきり残っていた。
リュウは慌てて、混乱してしまって、わたわたと取り乱してしまった。
「あ、あの! えーと、ええと、あの、ご、ごめんねっ? おれ、そんなつもりじゃ……!」
あんまりのもどかしさに、じたばたしてしまいそうだ。
リュウはもうボッシュの目の前にいることがひどく辛かった。
好きな人がいるのに、どうしておれなんかに触るんだ。
抱いて、ひどくして、あんなに優しくするんだ。
ボッシュはひどい。
――――リュウのくせに、ボッシュにひどい言葉を浴びせてしまいそうで、怖かったのだ。
「で、でも! 好きな人がいるのに、触っちゃ、駄目だよ、おれなんか……。迎えに、行くん、でしょ?」
リュウは無理をして、笑った。
そして、ボッシュにだいじょうぶだよ、と言ってあげた。
「だ、だいじょうぶ、何も無かったんだ。おれは男だし、何も、なんにもされてない。ボッシュ、大丈夫、すごく格好良いもの。今度こそ、ちゃんと――――」
じわっと涙が浮き出してきた。
そろそろ限界だ。
「……ちゃん、と……迎えに……」
ぎゅっと目を瞑って、堪えた。
それでも涙は零れた。
ボッシュが何か言おうと口を開けたのが見えた。
それはローディのくせに何をするんだとか、オマエが俺に手を出すなんて1000年早いとか、もしかしたらいつものように蔑んで笑われるのかもしれない。
やっぱりオマエ、勘違いしてたんだななんて、そんなふうに。
「手を……繋いであげて、だいじょうぶだよ……」
それがぎりぎりのところだった。
リュウはボッシュに背を向けて、また逃げ出した。
デスクにぶつかった拍子にばさばさと本が床に落ちてしまった。
だが、それに構っている余裕はなかった。
乱暴に書庫の扉を開けて、逃げて、逃げた。
もうボッシュの顔を見ていられなかった。
そして、リュウは逃げ出した。
憎まれて蔑まれて、でも抱かれて、ボッシュは愛とは違うかたちだとしても、リュウを特別として見てくれていた。
本当のところはいつかボッシュが、リュウがこんなに彼のことが好きだなんてことに気がついてくれて、いつの日か、愛してくれるようになるんじゃないかなんて――――。
そんな、夢を見ていたのだ。
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