「……っ、うっ、う、う……」
 リュウは泣きながら、下だけ見て歩いていた。
 足元でかさかさと枯葉が潰れて、乾いた音を立てた。
 街の北の森である。街道はない。
 辺りは昼なのに薄暗く、じめじめと湿っている。
「……ふ、えっ、……ううぅ……」
 目を擦りながら、なんだか鼻水まで出てきた。
 惨めなことこの上ない。
 なんで泣くんだろう、おれ、とリュウは不思議だった。
 ボッシュに好きな人がいて、それはすごく嬉しいことなんじゃないだろうか?
 あの何でもどうでも良さそうなボッシュが、誰かを好きになることができて――――憎しみだけで生きていくなんて、そんなことは寂しくて哀しいだろう。
 そして、リュウにはボッシュは救えない。
 ボッシュはリュウを蔑み、嫌悪していたので、愛なんて感情を共有することはできないのだ。
(……なんで泣くんだ。嬉しいって、言わなきゃ。良かったねって……おれも応援するね、とか。何でもするよ、とか……言わなきゃ、ならないのかな……)
 リュウは自分の往生際の悪さに、泣きながら苦笑してしまった。
(いつか……ボッシュが、おれを見てくれたら……なんて。やっぱりおれ、ほんとはそんなふうに思ってたのかな……)
 確かなところ、その微かな希望だけが、今不安定なリュウを生かしていた。
 そして、それはボッシュの言葉であっけなく絶たれた。
 いつものように、日常の絶望とそう変わりないかたちで、希望の糸はぷっつりと途切れてしまった。
 リュウは立ち止まって、振り返った。
 まだ遠くに街が見えた。
 ボッシュは追い掛けてきてくれなかった。
(当然だ。おれのこと……ほんとに、どうでも良かったんだもんね、やっぱり……)
 リュウは肩を落として、また歩きはじめた。
(おれ……なんで生き返ったんだろう)
 大きな疑問が、リュウの頭の中をぐるぐる回っていた。
 ボッシュに必要とされないのに、何故彼の腕の中で目を覚ましたのだろう。
 あるはずのない希望なんて、抱いたのだろうか?
(もう、いいや。なんでも……)
 自分などもうどうにでもなってしまえという狂暴な自棄の感情が、リュウを支配し始めていた。
(おれなんて……ボッシュに、触って、もらえただけで)
 ボッシュはリュウの身体を通して、彼が好きな女の子を見ていたのだろうか?
 ずうっとああやってひどくされながら、時折優しく扱ってくれたのも全部そのせいだったのだろうか。
(もう、なんにも欲しいものはないや……)
 元から分かっていたはずだ。
 ボッシュはリュウを好きになってくれるはずがない。
 だけど、こうして泣いているのだから、自分はきっとほんの少しは望んでいたのだろう。
「おれ、ほんとに諦め悪いんだなあ……」
 涙声でぼそぼそ言って、溜息を吐いて、リュウはまた歩き出した。
 森はどんどん深くなっていき、街はもう視界のどこにもなかった。
「かえりたく、ないなあ……」
 どういう顔をして、ボッシュに会えば良いだろう。
 ボッシュと、明日からはなんでもないみたいな顔をして、仕事ができるだろうか。
 ボッシュが連れてきた女の子に、ちゃんと笑えるだろうか。
 嫉妬して、ひどいこと言ってしまいやしないだろうか。
 もしボッシュがその女の子と――――可愛い子だろう、きっと。ボッシュが好きになってしまう人だ――――結婚なんかしてしまって、その時リュウは笑ってちゃんとおめでとうなんて言えるだろうか――――
 もう一度振り返った。
 やはり、ボッシュは追ってはこなかった。
 リュウは泣きながら苦笑して、また歩き出した。
 森のずっと奥へ。







◇◆◇◆◇







――――リュウ!」
 やっと見付けた。
 ボッシュは見慣れたオリジンのコートを、その肩を掴んで、乱暴に顔を自分の方に向けさせた。
「なんで逃げるんだよ。オマエ、俺から逃げられるとでも思ってるわけ?」
 セントラル最上階へと続く階段に、リュウはいた。
 自室へ戻って泣いているのだろうと見当をつけたが、思ったとおりだ。
「話は、最後まで聞けよ。俺は――――
――――っ、痛い、はなして、ボッシュ」
 リュウは、ほんとにもう、と困ったような顔をして、ボッシュの腕を振り払った。
「もう、いつでも乱暴なんだから。そんなだから失恋なんてするんだよ」
「……はあ? 何だよ、その口の訊き方」
 リュウは相当怒っているようで、その理由というのがボッシュにはなんだかくすぐったく感じてしまうものだったが、なにしろとりあえずは誤解を解くところから始めなきゃならない。
「何勘違いしてんだか知らないけど、いや、見当はついてるけど。オマエは馬鹿なんだから、ちゃんと全部聞けよ」
「ボッシュに馬鹿だなんて言われたくないよ! なん、で……やさしく、してくれないの? おれ、こんなに……こんなに、きみのこと……ほ、他に、好きな人、いるんでしょ? だったら、なんでおれなんて」
「だから、勝手になんでつまんないこと考えてるんだって言ってるだろ。俺は――――
「おれだって、きみにひどいこと、いっぱいされて……いつもひどいことばっかり言われて、身体も、刺されて。化け物だって言われて、殺してやるなんて、そんなこと言われて。ほんとは、おれの父ちゃん、殺したのも――――
 リュウは、きっとボッシュを見上げた。
 それは鋭い目だった。
 微かに、懐かしい感触を帯びていた。
 空を目指すリュウは、確かこんな目をしていたのだ。
「ボッシュだ」
「……え?」
 わけのわからないことを言われて、ボッシュは口篭もった。
「……なに言ってんの、オマエ? そりゃオマエだろ、リュウ。俺の――――
「ジオフロントで、殺したでしょ。知ってるんだよ、おれ」
「オマエの親父なんか、知らないけど」
「おれだって、ほんとは。ほんと、は――――
 リュウの声は、辛そうな響きを帯びた。
 いろんな想いがぐるぐると回っていて、どうすればいいのかわからない、というふうな。
 そして、リュウは虚ろな声で――――感情など、愛なんて、もう忘れて、捨ててしまったというような声で、ボッシュを無感動に見上げた。
 リュウにそんな目で見られるということが、ボッシュにはひどい痛みを伴うものだった。
 今、気付いた。
 リュウはボッシュの見たくない顔で、聞きたくない声で、抑揚なく告げた。
「おれだって、ほんとはボッシュのこと、憎いよ」
 冷たい声だった。
 リュウの温かい微笑みはそこにはなかった。
 ただ虚ろで、なにもかも全部諦めて、ボッシュから遠くへ去って行ってしまったような、そんな顔でリュウは言ったのだ。
「愛してなんてくれないくせに、どうして呼んだの、ここに。眠っていれば幸せな夢だけ見ていられたのに、おれからそれすら奪って――――なんでまだ、ひどいことばっかりするの、ボッシュ」
「リュウ……」
 ボッシュは腕を伸ばした。
 そして、リュウを抱き締めた。
 リュウは顔色も変えなかった。
 いつものように赤くなったりもしなかった。
 もう何も信じない、そういう目をしていた。
 あのリュウがこんな顔をするなんて、こんな声を出すなんてことは、あってはならないことだった。
 それだけは守らなければならないものだ。
 ボッシュはリュウを抱く腕に力を込めた。
 どうすれば信じるだろう。
 1000年ずっと、ボッシュがリュウを憎む理由を。
 どうすれば――――
「リュ、ウ……好きだよ」
「……信じないよ。どうせまた、嘘でしょ」
「好きだ、リュウ。ガキの頃から、そうだった。オマエが好きだ。オマエが望むなら、1000年でもずうっと、俺はオマエを憎んでやるよ。だから……」
 ボッシュは僅かに焦燥しながら、リュウの髪を撫でた。
 柔らかくて綺麗な青だ。触っていると、安堵する。
 こればっかりは、絶対に言ってやらないが。
「笑えよ。そんな顔、やめろよ、リュウ……」
 そこで、リュウに微かな変化が見えた。
 顔を俯かせて、震えている。
 泣いているのかもしれない。
「リュウ……?」
 ボッシュは少しの不安を覚えながら、リュウを覗き込んだ。
 リュウは――――
「く……っ、はは、あはははは……!」
 笑い出した。
「リュ、リュウ?」
 確かに、笑えよ、とは言ってやった。
 だが、こんな馬鹿笑いをしろ、なんて意味ではない。
「おい、オマエ、何笑ってるんだよ」
 ボッシュは顔を顰めて、本当におかしそうに笑うリュウの肩を掴んだ。
 もしかしたら苛めてやりすぎて、おかしくなってしまったのかもしれない。
 そう心配になってきたところで、リュウは涙がくっついた目尻を拭いながら、ボッシュを指差した。
「ははっ、あはははは……! バーカ!!」
「……なっ!?」
「だっ、騙されてやんの、マジで……ひっ、お、おっかしー!!」
「…………」
 ここに来て、ボッシュにようやく理解が訪れた。
 リュウが柄にもなく掛けている遮光眼鏡はなんだ?
 泣いて赤く腫れた目を隠すものだとばかり思っていたが、どうやらこれは違うらしい。
 無言のままグラスを取っ払ってやると、思ったとおりのものが現れた。
 血のように真っ赤な赤い瞳だ。
 少なくとも、リュウのものじゃない。
 ボッシュは喉の奥で唸るようにして、そいつの名を呼んだ。
「……てめえ、何やってんだ、アジーン……?」
「あははははは! や、やめろ、喋んなよ! し、死ぬ……! お、おかしー! わ、笑えよ、だってさ!」
「うるせえ、黙れ! なんでオールドディープが真昼間からこんなところでリュウの物真似をやってるんだ!」
「泣きそうな顔してやんの、あははは! チェトレ、オマエんとこのリンク者、すげー面白え!!」
「……とりあえず、その格好で笑うのは止めろ」
 ボッシュは渋い顔をして、笑い続けているアジ―ンを持て余した。
「おいチェトレ、オマエの姉貴、どうにか……」
 ふっと後ろを向いた矢先、階段の隅で自分と同じ姿をしたものが腹を抱えて笑っているのを見付けて、ボッシュはさすがにげんなりしてしまった。
「……もう寝る」
「ははっ、は、あ、ああ? なんだよ、リュウのこと心配してたんじゃないの?」
「知ったことか。なんだ、共犯か」
「いや、リュウは知らないよ。なんにも、なんにも、さ」
 アジーンはにやっとして、はあ、と溜息を吐いた。
 それで笑うのはおしまい、と言った仕草なのだろう。
 いつも思うのだが、このおかしな人間臭さは何なのだろうか。
「なあんにも、例えばオマエがリュウのことがどれだけ好きだかとか、1000年憎む理由も、オマエに親父を殺されたことも知らないよ」
「……さっきから聞いてりゃ、訳わかんないことばっかり言いやがって。全然身に覚えがないし」
「知らないなら知らないでいいさ。リュウもなんにも知らないし、それでいい」
「気を持たせるような言い方しやがって、なんだ?」
「知りたきゃチェトレに聞けば。ああ、俺ちょっと用事あるから、どいてボッシュ=1/4。邪魔」
「……リュウの顔で、そういうことを言うな。あいつ、どこだよ? 部屋に戻ったんじゃなかったのか?」
「ああ、頭冷やしてくるってさ」
 ひとりになりたいんだって、とアジーンは言った。
「何日かしたら帰ってくるよ。その頃には気持ちの整理もついてるってさ」
「整理……? 何の」
「オマエに関してだろ。すっぱり諦めるって」
「な、なんで諦めるんだ?! 俺は――――
「可愛い彼女でも作るんじゃない? あ、女の子だっけ。じゃあ、いじめてひどいことしない優しい彼氏でも」
「適当なことを言うな! おい、リュウはどこだ?!」
「知ってても教えてやらない。どうせまた力ずくでなんかイロイロするんだろ。なんでもいいけどさ、俺のリンクしてないところでしろよ。後で何度かほんとに殺してやろうかと思ったよ。チェトレを」
「……なんでチェトレ」
「な、なんでもいいだろ。あーあー、仕事仕事。オリジンは忙しいな――――ねえ、ボッシュ?」
 最後だけリュウの口真似をして、アジーンはにっこり笑った。
「代行、仕事期待してるよ。まさか探しに行ったりしないよね? リュウはオマエの顔なんて見たくないって」
「な……」
「お願いされたら、オマエの記憶も消してあげちゃおうかなあ。あ、チェトレ。オマエもどうだ、オリジン。人間の仕事だぞ」
「わー、やるやるー! 面白そうだね、姉ちゃん!」
「ちょっと待て! 記憶って、どういうことだ?!」
 アジーンとチェトレは、姿かたちだけはボッシュとリュウが仲睦まじく見える姿で――――嫌がらせか何かなのだろうが――――寄り添って、にっこりと微笑み合った。
「うちのリンク者、ことあるごとに苛めやがって。覚えとけ」
「アジ―ン姉ちゃん、こわーい」
「チェトレ、オマエその格好でその口調、すごく気持ち悪いぞ……」
 二匹の竜は、そうして階段を降りて行った。
 ボッシュはふいに気が付いて、手摺り越しにアジーンに怒鳴った。
「おい! オマエ、リンク者ほったらかして何やってんだ?! 前みたいにディクに襲われてたら、どうするつもりだ!」
「大丈夫大丈夫。リュウもあれでわりとしっかりしてるよ」
「してねえよ!」
「んじゃ。あ、俺がオリジンやってる間は思いっきりこき使ってやるからな」
「ふざけんな!」
 叫んでも、聞いた素振りはない。
 ボッシュは舌打ちをして、頭を抱えた。
(なんで、こんなことになるんだ……!)
 それよりも、気になることがひとつある。
 リュウは、どこへ行ったのだ?















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