さらさらとした水の流れが、身体に染みるように冷たい。
 リュウは目を覚ました。
 頭が重かった。
 身体中、痛くてしょうがなかった。
 ゆっくりと目を開けると、真っ暗闇だった。
 さらさら、さらさらと暗闇の中から水のつぶてが柔らかくリュウを叩いた。
 雨が降っている。
「う……うう、ん」
 ゆっくりと起き上がると、そこは砂利石と岩でできた川の岸辺だった。
 雨で少し増水していたが、どうやら岩に引っ掛かっていられたらしい。
 タコはどこにもいなかった。
 今頃、どこかで目を回しているのかもしれない。
「あ……!」
 リュウはがばっと起き上がり、水から上がって、コートの胸元をはだけた。
「だ、大丈夫?! 生きてる?!」
 そこには妖精が一匹、ぐったりしていた。
 リュウが慌ててつんつんと突付くと、彼女は少し身震いした。
「うー……い、いろいろギリギリよう……」
「よ、良かったあ」
 ほっとしてしまって、リュウはコートの合わせ目を閉じた。
 妖精の彼女は、その隙間からぴょこんと顔と腕だけ出して、ひさしぶりよう、と言った。
「2年ぶりよう! フェアリドロップ、あげるよう! 今は、まだ……使っても意味ないけど」
「あ、ありがとう。ねえ、地下に住んでたんじゃなかったの……?」
「のこのこ出てきたよう。おひさまの方がすきよう。でも、みんなとはぐれちゃったよう……」
 しょんぼりしてしまった妖精さんに、リュウはそう、と頷いた。
「あのさ、妖精さん……」
「あー! 名前覚えてくれてないよう! クラベルよう!」
「あ、ご、ごめんクラベル。おれ、あの、実はあんまりまだ見分けが付かなくて」
「ひどいよう!」
「ご、ごめんね?」
 リュウは素直に謝って、それから彼女に大丈夫?と訊いた。
「怪我、ない?」
「ぴんぴんしてるよう! どうやらリュウのおっぱいがクッションになったよう。胸板なら潰れちゃってたよう」
「あ、そうなんだ……あはは、こんな身体でも、それはちょっと良かったかも」
 リュウは困ったように微笑んで、それから、ここどこかわかる、と言いながら辺りを見回した。
「随分流されちゃったのかな……。街がどっちか、さっぱりわかんないや」
「あー、羽根が乾かないよう。でも、雨降ってくれて良かったよう。上がれば、みんなのところに帰れるよう」
「……? どうして?」
「虹が出ると、目印になるよう。あー、でも夜のうちに止んじゃうのはちょっと困るよう……」
「だ、大丈夫。朝まで降るよ、これ」
 リュウはクラベルを安心させようとにこっと笑いながら言って、歩き出した。
「ともかく、雨宿りができる安全なところまで行こう。何が出るかわからないし」
「異議なしよう」
 一人と一匹は、そうして濡れ鼠になりながら、とぼとぼと歩き出した。







◇◆◇◆◇







「ああああ、雨、降ってきた……リュウ、ずぶ濡れで泣いてないかなあ。なあ、ディクに襲われて痛い思いしてたり、まさか食われたりしてないかなあ、チェトレ……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。もうアジーン、過保護過ぎ。人間って割と丈夫だから平気平気」
「で、でもさあ、ああもう、こんな事ならこっそり分体をついて行かせるべきだった。リュウ、一人にしてなんて言って、傷心で自暴自棄になってたりしたら……ど、どうしよう、チェトレ……」
「だいじょうぶ、アジーン。ほら、いいこいいこ、だね」
「うう……リュ、リュウー……。一人寝は、寂しくないかあ……」
 さっきはあれでわりとしっかりしてるよ、なんてボッシュに言っていたアジーンだったが、暗がりの中で雨まで降ってきて、しきりにリュウの心配をし始めた。
 傘を持って行ってない、着替えもなし、下着もコートも着のみ着のまま。
 リンクを外して体力も腕力も落ちている。竜の力も使えない。
 そのせいでリュウはディクにやられてやしないか、雨に打たれて風邪を引いてやしないか……さっきから堂々巡りで、少しリュウに嫉妬はしてしまうが、こんなアジーンを見られるのなら、リュウには是非定期的に行方不明になってもらいたいものだ、とチェトレは思う。
 口にするとアジーンはきっと巨大な竜の本性を現して暴れ出すと思うので、絶対に言わないが。
 彼らがいるのは、リュウの寝室だった。
 セントラル最上階の竜の間である。
 大きな窓には、どんよりと曇った夜空から落ちてくる雨粒が、ばしばしと叩き付けていた。
 時折雷も鳴り始めた。
 夜半過ぎに、嵐が来た。
 そうなってからのアジ―ンの反応は、面白いくらいだった……リュウ、リュウが死んじゃう、なんてほとんど涙声でぼそぼそと言って、チェトレにぎゅうっと抱き付いてきたのだ。
 今にもにやにやとだらしなく顔を緩めてしまいそうになりながら、チェトレはいつもの穏やかな微笑を湛えたまま、目を瞑ったままで、アジーン、だいじょうぶだよ、と繰り返した。
 そうしてやると、そうかなあ大丈夫かなあなんておどおどと反芻し、また雷が鳴ると、ああやっぱまずいよリュウなんて半泣きになるのだ。
――――我が姉上殿に、こんな可愛らしい一面があったとは)
 チェトレはなんだかくすぐったいような気持ちで、アジ―ンの頭を撫でてやった。
「姉ちゃん、ちょっと寝た方がいいよ」
「で、でも、リュウが……」
「心配ない、心配ない。嵐くらいじゃリンク者は死なないよ。それに、ねえ」
 チェトレは雨雲を見上げて、うっすらと微笑んだ。
「これだけ降れば、きっと明日は晴れるよ」








◇◆◇◆◇







 
「嵐、か……」
 今日一日で、誰もオリジンリュウの正体に気付いた者はいなかった。
 ニーナでさえも気がつかなかったのだ。
 ニーナにとって、アジーンはリュウと同義語であったので、無理もないことだろう。
 あの竜とリンクする前のリュウを、彼女は知らない。
 アジーンの執務は、半分以上がボッシュ個人への嫌がらせのようなものだった。
 勝手にこっそり給与を半分カットしてみたり、書類にミスを書き込んだり、ほぼ子供の悪戯レベルだった。
 それをリュウの穏やかな顔と声と微笑み方を完璧にコピーしてやるのだ、凶悪極まりない。
「どこで何やってんだか、あの馬鹿」
 窓を開け放って、ボッシュは呟いた。
 激しい雨粒が部屋の中へ容赦なく入り込んできて、ボッシュの身体を打った。
 外はひどい風で、痛いくらいに冷たい、強い雨だ。
 この中に、リュウはいるのだろうか。
 間違いなく風邪くらいはひいてしまうだろう。
「くそっ」
 人間一人のために、ボッシュ=1/4はここまで情けなくなることができるのだ、とボッシュは新しい発見をしてしまった気分だった。
 たかがリュウが一人だ。
 そのくらいで、この胸の痛みは、疼きは何だ?
 昨晩は今しがた、確かにボッシュはリュウを腕の中に抱いていたのだ。
 その感触を、今そこにあるように鮮明に思い出すこともできる。
 従順で、ボッシュのためなら何でもすると言ったリュウ。
 身体も使って、好きにしてと彼は泣きながら言った。
 本当は嫌いになんてならないで、好きになって欲しい、と彼は言った。
 でも今更優しくなんて、どうしてやればいいのだろう?
 それに、リュウは信じないだろう。
「さっさと帰って来い、馬鹿……」
 このセントラルにあるべきは、彼の姿なのだ。
 リュウのいないこの街に、何の執着もない。
 何もかもが思い通りにならないことに、ボッシュは舌打ちし、窓を閉めた。




 
 


◇◆◇◆◇








「ひどい目に、遭ったよう……」
「そうだねえ……」
 外は雷雨だ。嵐が来たのだ。
 古木の洞で強い雨と風を何とか凌ぎながら、リュウはアンダーの水気を絞った。
 コートはまだびしょ濡れで、冷たく湿っている。
 リュウは裸で膝を抱えて、はあっと溜息を吐いた。
「おれもニーナみたいにパダムが使えればなあ」
「寒いったらないよう」
 元より素っ裸のクラベルは、肩を擦りながらガタガタと震えている。
 リュウも芯まで凍えてしまいそうだった。
 後で風邪くらいは間違いなく引くだろう。
「あったかいスープが飲みたいよう……」
「そうだねえ……」
 リュウは心底同意して頷いて、そういえばさ、と切り出した。
「なんではぐれたの?」
「空を探検中よう」
「蟻さんは?」
「街を作るのに手一杯で、人手が足りないよう……。オーナー、地上は手強いよう」
「ほんと、手強いねえ……。さっきもおれ、ディクにずーっと追い回されてたんだ。ずーっと」
 食べられなくて良かった、とリュウはほっと一息ついた。
「そういえば、リュウはなんでひとりなのよう。ニーナとリンは?」
「あ……ちょっといろいろあって、家出、してきちゃった……」
「家出って、なんでまたそんなことになったのよう?」
 リュウは、ううんと唸ってから、一番しっくりくる説明を簡潔にしてみた。
「失恋」
 クラベルは、小さな顔を難しく顰めて、腕を組んで溜息をついた。
「恋、破れたり、なのよう……」
「破れると、やっぱり哀しいよね……」
「元気出すよう。帰ったら後で、一杯奢るよう。いいお酒が入ってるよう」
「うう、ありがとう」
 小さな手のひらで撫でられて元気付けられて、リュウは困ったふうに苦笑した。
「ほんと、元気出すよ。いつまでも落ち込んでられないし、仕事もしなきゃならないし……くしゅん!」
「リュウ、風邪ひいちゃったよう……」
「みたいだねー……仕方ないよね、この寒さじゃ」
 リュウは洞の穴から覗く真っ暗な空を見上げて、溜息を吐いた。
「明日は晴れるといいね、ほんと」














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