ふうっと幻影みたいに、彼は水浸しの草原の真中に突然現れた。
雨上がりに、っていうのは本当だったようだ。
彼を迎えに来たニーナは、知ってはいたもののびっくりしてしまった。
「リュウー!」
名前を呼んでぶんぶんと手を振ると、リュウもニーナを見付けて、にこおっと笑った。
「ニーナ! ただいまあ!」
リュウはだぶだぶのコートの袖を上げて、思いっきり手を振ってくれた。
ニーナは傘を放り出して走っていって、リュウに飛び付いた。
その拍子に、ぎゅう、と小さな悲鳴が聞こえて、リュウが「あ」という顔をした。
「……?」
ニーナが顔を上げると、懐かしいものがそこにいた。
「ひどいよう。ぺっしゃんこよう!」
「あ! 妖精さんだ!」
「ひどいようひどいよう! ニーナも名前、覚えてくれてないよう! この分だとリンも絶望的よう……」
「えーと、ご、ごめんね? えっと、」
「……クラベルよう。寂しいったらないよう……」
「クラベル、ごめんね? みんないっしょのお顔に見えて、誰だかわかんないの……」
「うう、もういいよう」
妖精さんはふてくされてしまったようで、ごそごそとリュウのコートの中に潜って行ってしまった。
ニーナがちょっと困っていると、後ろから誰かがさっきのニーナみたいな調子でリュウに飛び付いて、ぎゅうっと抱き締めた。
勿論、またリュウの胸の辺りからむぎゅうという声が聞こえたのは言う間でもない。
「リュウー! テメエこの、心配掛けやがって!」
「わ、ご、ごめん、アジーン!」
リュウと一緒の顔をしたアジーンが、泣きそうな顔でリュウの胸にぎゅっと頬を摺り寄せた。
「心配したんだ、死ぬ程! 雨は降ってくるし、雷は鳴るし、嵐は来るし、今頃どっかで泣いてるんじゃないかなとか! オマエ着替えもなんにも持たずに手ぶらで出てくし、ディクに食われてんじゃねえかなとか、すっげえ心配したんだからな! もう絶対一人になんてしてやらない! 分離なんか、死ぬまで絶対しないからな! 覚えとけ!」
「だ、だ、だ、だいじょうぶだよお、アジーン、心配症……」
「ていうかオマエ、どうしたんだよその格好! ぼろぼろでびしょ濡れじゃないか。アンダーとブーツは? うわっ、下、素っ裸じゃん! 誰かにひどいことされなかったか? あ、膝擦り剥いてるじゃ……あー! か、顔に傷が!!」
「あ……多分、転んだ時に、擦り剥いて……」
「帰って手当てだ!」
「もう、だいじょうぶだったら」
リュウは困ったふうに笑って、「ただいま」と言った。
アジーンは気が抜けてしまったようにふうっとリュウに寄り掛かって、あ、ゴメンちょっと寝る、と言った。
その身体は赤い光に変わって、リュウの中に染み込むように消えていってしまった。
リュウはちょっとばつの悪そうな顔をして、すごい心配掛けちゃったなあ、と落ち込んだふうに言った。
「もうひとりのリュウ、寝てなかったみたい」
「ゴメンね、アジーン……あとでナゲットケーキ、作るね」
どくん、と返事をするように、リュウの心臓がひとつ大きく鳴ったのが、くっついているニーナの耳に聞こえた。
「リュウ、早く帰ってお風呂入ったほうがいいよ。身体、すっごく冷たいもの」
雨に打たれて、リュウの身体は氷みたいに冷えきっていた。
リュウは平気そうな顔をしていたが、このままだと風邪を引いてしまうかもしれない。
笑ってだいじょうぶだよおなんて言っていたが、ニーナは駄目よと怒ったように言っておいた。
彼は全然自分の身体を大事にしないので、二ーナが見ていてあげなければならないのだ。
「お風呂に入って、あったかいスープを飲んで、それから……」
「ううん、やっぱりおれよりニーナの方がしっかりしてるみたいだ……」
「ほんとよ、もう!」
ニーナはくすくすと笑いながら、困ったふうに微笑むリュウにぎゅっと抱き付いた。
「おかえり、リュウ!」
「うん、心配掛けてごめ……」
そこで、リュウはびしっと硬直してしまった。
なんだろう、とニーナは顔を上げて、気付いた。
「うーん。いや、いい尻だよなあ。アンダーなしなんて、こんな機会はめったにないよなあ。ありがたいありがたい」
「……な、な、な、なに? あの、なにしてるの? ジェズイット……」
リュウは心の底から困惑しているようで、眉を下げて「え」という顔をしている。
リュウの後ろにいるのは、ニーナと一緒にリュウを迎えに来たジェズイットだ。
書類整理が面倒くさかったようで、俺も俺も、なんて仕事をほったらかしてクピトに睨まれていた。
彼はリュウのコートの後ろを捲り上げて、感心したように何度も頷き、美術館で芸術作品でも鑑賞するように、感嘆の溜息を漏らしている。
「このラインがいい感じだな。うーん、いやしかしもう少しボリュームが欲しいところだなあ」
「ひゃっ」
ぺろん、と尻を撫でられて、リュウが総毛だって顔色を無くし、小さな悲鳴を上げた。
ジェズイットはいやらしい動きで手を動かして、うーん、4.8点、なんて言っている。
「わ、っ」
リュウが真っ赤な顔をして、目をぎゅうっと瞑った。
ニーナはか細い杖をジェズイットの額にこつんと当てて、にっこりと微笑んで、言ってやった。
「……死んでいいわよ」
「ああ、お帰りなさい……って、何ですか、それ」
「ただいまあ。リュウ、見つかったよ、クピト!」
「ああ……お帰りなさい、二代目。まあ何でもいいんですけどね」
セントラルのホールで、ちょうど完成した書類の束を抱えたクピトに出くわした。
彼はぐったりとなって、リュウに背負われて引き摺られているジェズイットが気になったようだったが、まあいつものことだと理解して、諦めたようだった。
重そうにジェズイットを引き摺っているリュウは、なんだか本当に困ったような顔をして、うーん、と唸っている。
「あの、ニーナ……いくらなんでも、ワースはちょっとやりすぎじゃ」
「リュウのお尻に触ったんだもの。そのくらい、あたりまえよ」
「うーん……とりあえず、メディカルセンターに連れて行ったほうが……って、わ、わあっ」
急にびくっとして、リュウは恐る恐る顔を上げた。
良く見ると、ぐったりしているはずのジェズイットの手が、わきわきとリュウの尻に触れている――――ニーナははあっと溜息を吐いた。
「キリエの方が、良かったかしら?」
「いや、めっそうもない」
「だ、だから! なんでおれの尻なんか触るの?! 触ったって全然面白くないだろ!」
「うーん、割と形はいいなあ」
「聞いてよってちょ、うわあ、コ、コートの中に手を突っ込まないで!!」
「……オンコット。それ、どうにかして本当」
クピトがもう面倒臭そうに命令すると、無敵のガルガンチュアがぬっとホールに顔を出して、リュウの背中からジェズイットを引き剥がし、摘み上げた。
「それ、もうほとんど病気ですよ、ジェズイット」
「だってなあ、二代目、反応が処女なんだもんなあ……」
「な、な、な……」
リュウが顔を真っ赤にして、変なこと言わないで、ニーナの前で、と珍しく怒鳴った。
オンコットに摘まれたまま、考え深いふうに腕を組んで、ジェズイットは、ううん、と唸った。
「大丈夫だ。そんなに心配しなくても、触られたらきっとでかくなるぞ、二代目」
「そんな心配してないよ! ああもう、大人なんて汚いんだ……! ……おれも大人なんだっけ、そう言えば」
「リュウは汚くないわ!」
「どうでもいいんですけど、君の部屋、牢屋に移し変えた方が良いような気がしてきた最近です」
クピトはげんなりと地下を指して、言った。
「またしばらく投獄です。ていうか仕事して下さい」
「なあ、本の持ち込みはナシか? あそこは退屈でつまらんのだ」
「君、本なんてほとんど読まないでしょう。必要ありませんし、禁止です」
「あー、またイメージか……。まあ、二代目のいい尻も触れたし」
「最低」
「最悪です」
「ほんとに死んでいいよ、もう」
そっけなく、冷たい口調と表情で呟くニーナとクピトの横で、リュウが額を押さえながら沈痛に言った。
オンコットはのしのしと階段を降りて行って、すぐに見えなくなった。
「もう、なんでああやって人の嫌がることをするのかしら……!」
「結局子供っぽいんですよ、ねえ……」
クピトはそうして、ちょっと気の毒そうに、ちらっとリュウを見た。
「今回も、見込みは無さそうですし。まあ、同情する訳じゃないんですけど」
「?」
「ああ、なんでもないです。そう言えば、二代目。なんですか、その格好」
「ああ……す、すぐ着替えてくるね? し、仕事も、ちゃんとこれからするから……」
慌ててリュウはくるっと背中を向けて、自室へ戻るつもりなのだろう、駆け出した。
だが、
「わっ」
廊下の角から現れた人影に、どん、とぶつかって、ぺったりと床に尻餅をついた。
「いたた……あ、ごめんなさい。だいじょうぶだった……?」
ふうっとリュウが顔を上げて、謝った。
そしてちょっとびっくりしたように、あ、と小さく呟いた。
そこには、ボッシュがいた。
ニーナはたたっと駆けて行って、リュウの肩をきゅっと掴んだ。
「ごめんなさい、するの?」
ボッシュは何も言わなかった。
ただ無表情にリュウの頭から足の先まで見回してから、そのコートの胸元に手を突っ込んで、くつろいでいたらしい妖精さんを引っ掴んで摘み出した。
「わ、わ、わあ! な、なによう!」
「…………」
じたばた暴れるクラベルを、彼はつまらなさそうにぽいっと放り投げた。
「あ、あぶない!」
ニーナは慌てて小さな身体を抱き止めて、ボッシュを睨んだ。
「なんで乱暴なこと、するの?!」
ボッシュは何も言わないままで、リュウの手をきつく掴んで、引いた。
掴まれた手が痛かったのだろう、リュウがちょっと眉を顰めた。
「わ……あ、あの、痛い……痛いよ、ボッシュ!」
「ボッシュ?! リュウ!」
ニーナは慌てて彼らを追い掛けようとしたが、リュウは振り向いて、大丈夫だよ、と困ったふうに笑った。
「うー……」
ごめんなさい、なんて仲直りの雰囲気じゃなかった。
ニーナは口の端を曲げて、もう、と溜息を吐いた。
心配だったが、二人で話し合いでもするのなら、邪魔はしない方がいいだろう。
「もう……もうちょっと、優しいひとならいいのに」
目を回している妖精さんをぎゅっと抱き締めて、ニーナは呟いた。
ほんとに、ボッシュは乱暴な人だ。
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