(……なんで、こういうことになるんだか)
 傍らでリュウが眠り込んでいる。
 余程疲れていたようだ。それに、無理をさせたようだ。
 ボッシュは肩を竦めて、彼の名を呼んだ。
「……リュウ?」
 リュウの返事は無かった。
 どうやら、本格的に眠り込んでいるようだ。
 引っ叩いてやっても目を覚まさないに違いない。
 溜息を吐いて、リュウにシーツを放り掛けてやった。
「……何やってんだか」
 もう少し自制の効く性質だと思っていたのだが、とボッシュは苦々しく思った。
 それもこれも、リュウのせいだ。
 彼が逃げたりするから――――ボッシュの手の届かないところへ逃げようとするからだ。
「……何で逃げるんだ。俺から逃げられると、本気で思ってんのか、馬鹿」
 乱暴にリュウの髪を掴んで、顔を上向かせ、ボッシュはしばらくじいっとその寝顔を観察して、唇に触れるだけのキスをした。
 リュウの唇は柔らかい。気持ちがいい。
 嫌いじゃ、ない。
「馬鹿野郎、マジで、オマエは……」
 リュウの身体の感触を、その反応を、真っ赤になった表情を思い起こしながら、ボッシュはぼそぼそと囁いた。
「……なんでそんな顔、するんだ」
 リュウは本当はここではなく、ずっと遠いところにいるような、そんな顔をするようになった。
 遠くの方から、ボッシュをじっと見ている。
 見ている、だけのような――――身体を合わせているというのに、彼の表情にはリアルさが欠けていた。
 もう何もかも諦めてしまったような、きっとボッシュが何を言っても信じやしないような、そんな表情でもって、力なく微笑むようになった。
 それは笑顔ではあった。
 だが絶望と落胆で塗り込められた、リュウという人間にはあるまじきものだった。
 それはニーナやリン、メンバーたちや街の人間たちに向けられる笑顔とは、決定的に異なっていた。
 それは、ボッシュだけに向けられる笑顔だった。
 だが、好きにはなれそうもない。
 緩やかな拒絶を伴って、リュウはボッシュに笑い掛けるのだ。
 いくら肌を合わせても、中まで突っ込んでも、きっと好きだと言ってやったって、リュウはそう笑うだろう。
 ボッシュがおれを好きになってくれるわけがないというような、今どんなに触って愛されたとしても、すぐにきっと突き放されるに決まっているというような――――
 手を繋いで、すぐに離しちゃうのに、どうして繋いでくれるの。
 リュウは確か、そう言った。
「俺が触ってやってるんだよ。嬉しいだろ。……俺のこと、好きなんだろ……」
 リュウはボッシュを愛している。
 そのはずだ。
 だが泣いてばかりだ。
 抱きしめても、腹の中に呑み込ませても、リュウには悦びよりも恐怖の感情が色濃かった。
 手を繋いで、いつ離されてしまうのかと、リュウはずっと怯えていた。子供のように。
 リュウは笑ってばかりいる。
 まるで、その顔が崩れた時にはボッシュが自分を捨て去ると思い込んでいるように、彼は笑う。
 困ったように、無理矢理笑うのだ。
 ボッシュは手のひらをじっと見た。
 ふと、ともすればリュウを引き裂き、貫き、首筋を絞ってしまう、そんな手だ。
 それは簡単に成されるだろう、リュウはきっと抵抗しない。
 先刻彼を殺そうとしたことが、ボッシュの脳裏に再現された。
 リュウは目を閉じて安堵したように、ボッシュに身を任せていた。
 まるでボッシュに殺されることこそが、最高の恍惚だとでも言うように。
(……そんな馬鹿なことがあるか。俺は、まだオマエになんにも理解させてない)
 リュウは頭が悪い。
 ボッシュの言っていることを、半分も理解できていない。
 昔からそうだった。
 リュウは困ったようにいつも言うのだ。ゴメンね、おれ馬鹿だからさあ、あはは。
(本当に、馬鹿も馬鹿だ。ぜんっぜん、わかってないんだ……)
 ボッシュは忌々しく、床の上の濡れたコートを一瞥した。
 リュウのものである。
 アンダーもブーツもなしにあれを一着、それがどういう格好なのか、わかっているのだろうか?
 良くまあ、ここまで無事に――――無事具合は先ほど確認してやったばかりだ――――帰ってきたものだ。
(……馬鹿だけどカワイイっての、全然分かってないんだろうな。馬鹿だから)
 そのくせ余計なふうに考え込んで、おかしな勘違いなんてする。
「ばぁか」
 リュウの寝顔を見下ろしながら、適当に胸を触ってやった。
 リュウはぴくっと震えて、ボッシュの腕が気持ち良いらしく、んん、とねボケながら縋りついてきた。
 仕草がほとんど子供なのだ。
 女の媚態なんて、きっとリュウには一生掛かっても無理に違いない。
 少し残念だが、そんなところも彼らしいとは思う。嫌いじゃない。
 リュウは可愛い。
 はじまりこそ暴れはしたが、従順に、恥ずかしそうに、ボッシュの望むように抱かれる。
 ほんの少しの甘えの仕草もそうだ。
 滅多に見られないものだ。
 だが、そのどれもに漂う感情があった。
 諦めと、寂しさだ。
 リュウはまるで、自分の身体をがらくたか何かのように思っているように、感覚に鈍感だった。
 痛みに無反応と言っても良い。
「……勿体無い。こんなに可愛いんだぞ、オマエ」
 そう口にしてしまってから、ボッシュは赤くなって、おかしなことを口走ってしまったことを後悔した。
(なに考えてんだ、俺は。リュウは馬鹿だ。確かに、可愛いが……)
 ちらっとリュウの寝顔を見て、ボッシュはすぐさま目を逸らした。
(この俺が、何を馬鹿な――――なにを、マジで)
 不安なのだろうか。
 リュウはとても希薄な存在のように思えた。
 そのまま透けて消えてしまいそうな、そんな空気が――――以前はもう少し彼の体温は温かかったように思う。気のせいだろうか?
 少しずつ、リュウは何かを諦めていっているように見えた。
 あの鼻で笑ってやりたいくらいに似合わないオリジンという肩書きが、少しずつ馴染むようになってきたと思う。
 世界を平等に愛し、特別を作らず、――――彼にあった人間臭さが、あの馬鹿みたいに明るい笑顔が、僅かずつ姿を潜めるようになっている。
 ボッシュはリュウを見ていた。
 あのリフトでの出会い、レンジャー候補生としての再会から、空を開けて、オリジンとなった彼も、ずっと知っていた。
 知らなかったのはリュウだけだ。
 誰も彼もにあんなに幸せそうに笑っていたのに、ボッシュの前でリュウはあんなに綺麗に笑わない。
 ボッシュは特別なようだった。
 だが、そんな特別は願い下げだ。
(……随分参ってるみたいだな)
 リュウの頬を撫でてやって、涙の痕を拭い、ボッシュは彼を観察した。
 あの死の病の兆候は薄れていた。何故だろう?
 だが、ボッシュは本当は、気付いていた。
 リュウが絶望する度に、彼の目からはあの綺麗な光が薄れていくのだ。
 まるで心の欠片がひとつずつ零れていくように、消えていくのだ。
 それが全て失われた時、彼はどうなるだろう?
 それは知りたくなかったし、望んでもいない。
 いや――――
(……俺は、本当は、オマエを――――
 ボッシュは、本当は知っていた。
 リュウを絶望させていること、彼の心が少しずつ壊れ掛けていること、そしてボッシュ自身のことだ。
 憎んで欲しければそうしてやるし、愛して欲しければそうしてやる。
 だがボッシュは胸の内にある狂暴な衝動を自覚していた。
 それはボッシュを蝕み、リュウを傷付けるものだ。
―――― オマエをぶっ壊して、もう何にも他のものなんかに煩わさせたりしない。ニーナも、あの判定者どもも、街の人間どももだ。他のものなんか何にも見せやしない。俺だけだ)
 そうしてリュウを壊して、自分だけのものにした瞬間を、ボッシュは夢想する。
 それは甘美なことだった。
 簡単に、彼を殺してしまうのもいい。
 だが、壊れたリュウと世界にふたりきりで、どこまでもどこまでも歩いていくのもいい。
 リュウは壊れた心でボッシュだけを見る。
 その目は、誰も、空も見ない。
 もう地上は綺麗だなんて笑うこともない。
 ただ、リュウが見るのはボッシュだけだ。
 ずうっと手を繋いで、誰にも触らせない。
 そうなったら、リュウはボッシュがそばにいなければ泣くだろう。
 そう、リュウにはなんにもいらないのだ。
 文字を読み書きできる必要もないし、剣を握る必要もない。
 執務にかかりきりで頭を痛めることも、どうでもいい人間どもに笑い掛けることもしなくていい。
 オリジンなんかである必要はない。
 ただボッシュと手を繋いでいればいい。
 そして、鮮やかにボッシュだけに笑っていればいい。
 今のリュウが見せるくすんだ絶望の微笑ではなく、馬鹿みたいに呑気で頭の悪そうな、そんなもので。
「……リュウ。俺は、おかしいと思うか?」
 ボッシュはリュウの髪を梳きながら、苦笑した。
 今はリュウを泣かせるほか、何もボッシュはできやしない。
 壊してしまうことしかできない。
 もうどこにもいけないのだ、ということを、ボッシュは理解してはいた。
 リュウはボッシュのそばで、ボッシュの他の誰にも向けるように、あんなに幸せそうに笑うことはないだろう。
「なあ、泣かせてばっかりだよな、リュウ……」
 ボッシュは溜息を吐いた。
「なんで上手くやれないんだろうな」
 本当に、今はもう一度基本から父に鍛え直してもらいたいくらいだ。
 俺はこんなに軟弱だったか、とボッシュは自問した。
 それもこれも、リュウのせいだ。
 ボッシュは、腕に縋りついて微かな寝息を立てているリュウの額を、ぴんと弾いた。
「ばぁか」
 それはきっと、自分にも向けられていたはずだ。
 らしくない。
 少し頭を冷やすべきだ。
 それはここではないどこかなら、どこでもいい。
 ――――そうでなければ、今度こそ本当にボッシュは、リュウの首筋を絞める手を緩めないだろう。最後まで。
 ボッシュは窓の外を見遣った。
 辺りは暗く、静まりかえっていた。
「……頃合だな」
 ボッシュは小さく呟いて、リュウを抱いて、ベッドに寝転がった。
 今度は目覚めに、リュウと顔を合わせてやろう。
 どんな反応をすればいいだろう。
 だが、リュウはきっと真っ赤になってしまって妙な反応をするから、それを馬鹿にしてやればいい。
 今の内に、目に焼き付けておくべきだ。
 彼の顔を、くるくる変わるいつも少し伏目がちで悲しそうな顔も、そして彼の身体を、その小さな反応までも、覚えておくべきだ。
「……俺がいなくなったら、さ……」
 ボッシュは、不毛だと知りながら、眠ったままのリュウに問掛けてみた。
「笑えるか? それとも泣くかな、相棒」
 その答えは、どちらでもいい。今は、まだ。
 ボッシュはもう少し、強くならなければならないだろう。
 このローディよりもずっと、レンジャーであったあの頃のように傲慢に振舞えるような確信が、D値に代わるものが必要だ。
 そう、ボッシュはリュウよりもずうっと強くあらなければならない。
「そしたら、その時は……」
 ボッシュはそこで、口を噤んだ。
 その時はもっと、上手くやれるような気がする。
 リュウを守ってやれる。背中に回して、誰からも、何からもだ。
 きっと優しくなんてこともしてやれるだろう――――それに関しては、あまり自信がないが。
(これじゃ、俺がオマエに嫉妬してるみたいだがな)
「負けっぱなしっての、性に合わないんだよ」
 ボッシュは溜息を吐いて、リュウの頬をぎゅっと抓った。
 リュウは少し眉を顰めたが、ボッシュの腕の中で安堵したように眠っていた。
 誰よりも強くなって、今度こそ、リュウを――――













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