「ボッシュのバカ」
 リュウは小声でぼそっと言った。
 思ったとおりボッシュはごつんとリュウの頭を拳で殴って、不機嫌そうな顔をした。
「バカって、オマエ誰に向かって言ってんの」
「だ、だってひどいよ……あんまりだよ……こ、こんな、こんなこと! し、仕事中に……」
「どうせオマエの仕事なんて、たかが知れてるだろ」
「う、うー……そ、その通りなんだけど……でも、ちゃんと真面目に……」
「オマエも共犯だろ」
「うー……もういいよ……」
 ボッシュに口でも力でも勝てる訳がないということを、リュウは嫌と言うほど理解していた。
 思ったとおりやり込められて、リュウは真っ赤な顔をしたまま、乱れたコートの裾を直した。
「……シャワー浴びてくる……」
「一緒に?」
「な、な……! ちが、ちがうよっ!」
 ぐあ、と顔を赤く染めて、リュウはがたっと立ち上がり、へたっと床に座り込んだ。
 脚ががくがくして、立てない。
「何やってんの、オマエ。バカ?」
「ううう……ひ、ひどい……」
 めそめそしながら、あ、とリュウは気がついて、目の端を擦って顔を上げた。
「あ……あの、あのね、ボッシュ……」
「なに」
「き、きもち……よかったんだ、その、ええと」
 恥ずかしくて、リュウは俯いた。
 何を言っているんだかわからない。
 ボッシュもわからないだろう。変な顔をしてリュウを見ている。
「あの……あ、あり、がと。……で、でももう仕事中にこんなことしちゃ、駄目なんだからね! クピトにすごい怒られるんだから……あああ」
 真っ赤になったまま、リュウは震える足を踏ん張って、壁に手を付いて立ち上がった。
「……行ってくる……」
 ふらふらと歩き掛けたところ、腰を抱かれて、リュウは狼狽した。
「あ、あの、ななな、なに?」
「そのまま歩けやしないだろ、ローディ。部屋まで連れてってやるよ」
「い、いいよっ! 自分で歩ける! だいじょうぶ!」
 リュウは慌てて、ぶんぶん頭を振った。
 ボッシュが親切そうなことを言う時は要注意なのだ。
 きっとまた何かリュウを苛める手段でも思いついたに違いない。
 にやにやしながら、馬鹿にしきったようにリュウを見ているのだから。
「シャワー浴びるんだろ? こーいうの、久し振りだよな。あれ以来だっけ、ほらレンジャールームの浴室がぶっ壊れて、共用シャワーに回された時」
「あ……あの、でも」
 なんだか妙に機嫌が良さそうなボッシュに、リュウは何とも言えないまま、ほんとにいっしょにはいるの、と訊いた。
「まさかイヤなのか?」
「わ、そ、そんなこと、ない! ない、けど、は……はずかしいよ……」
「……オマエさあ、今まで何やってたっけ。あ、もしかして足りなかった?」
「へ?」
「自分でイロイロ触ってみるつもりだった? そりゃあ悪かった、邪魔して」
「ち、ち、ちがうよ! そ、そんなことしないよ!」
「じゃあいいじゃん」
「ううー……」
 リュウはがっくりと項垂れて、こればっかりはボッシュに懇願した。
「……あとで、ちゃんとほんとに仕事、しようね……」
「ハイハイ」
 どうでも良さそうにボッシュが頷いた。
 そうして他愛ない遣り取りをしていると、本当にサードレンジャー時代に戻ったようで、リュウはなんだかくすぐったくなってしまった。
(……ほんとにあのころに戻れたら良いのに)
 そんなふうに思いながら、リュウはちらっとボッシュの顔を見上げた。
 背丈は大分違っている。
 以前は同じ背丈だったはずなのに、こうしてボッシュを見上げるなんて、なんだか自分が縮んでしまったみたいだな、とリュウは思った。
 ほんの僅かな差が、いつのまにかものすごく大きな隔たりになっているのだ。
 例えば身長のこと、他にも、それは全てに関して言えることだった。
 本当になんにも考えずにボッシュの背中を追い掛けていられたあのころは、もう遠いところへ行ってしまった。
「なに、人の顔じろじろ見て」
「……いや、その……わっ」
 なんでもないよ、と言おうとして、リュウはふっと身体が浮き上がって、慌てた。
 ボッシュがリュウを抱き上げたのだ、と気がついて、リュウはまた顔を真っ赤に染め上げた。
「な、なに?!」
 尻を支えられて、砂袋でも担ぐみたいにされて、リュウはじたばたした。
「あの、ボッシュ?!」
「歩けないんだから、こうするしかないだろ」
「あ、歩ける! だいじょうぶ! だから下ろして!」
「……この抱き方が気に入らないなら、なんならオヒメサマダッコ、とかでも全然いいんだけど」
「うう……おとなしく、します……」
 ボッシュはやるといったらやる人なのだ。
 リュウは諦めて、ボッシュに身体を預けた。
「あの、重くない? 重いよおれ」
「オマエ、俺の力を馬鹿にしてるのか?」
「う、そんなつもりじゃ……で、でもほら、誰かに見られたらはずかしくない……?」
「べつに」
「うー……」
 しょうがないので、リュウはボッシュの首にぎゅうっと抱き付いた。
 とりあえず落っことされるんじゃないかなんてことが心配だったが、ボッシュにその気はないらしく、リュウは一応は安定していた。
 いつ彼が気まぐれを起こすものだか、知れたものではなかったが。
 そうしているとボッシュの体温が伝わってきて、リュウはぽおっとなってしまった。
 ボッシュは体温が低そうで――――朝がとても弱いものだから――――冷たい目をしているのに、こうして触ると彼はリュウより温かい。
 その心臓の音が、リュウは好きだった。
 彼と共鳴することが、リュウは好きだった。心音を共有できるからだ。
「……あー……」
「なに、気持ち良さそうな声なんか出して」
「んー、なんでも……」
 リュウが近付くと、ボッシュは傷が疼くのだと言った。
 今も痛いのだろうか?
「ボッシュ、背中、傷……痛い?」
「痛い」
「……ごめんね」
「…………」
「あ、ねえ、おれにも一緒の傷……」
「駄目だ」
「……なんで?」
「なんでも」
「……うー」
 いい考えだと思うんだけどなあと思いながら俯いて、リュウは間近にあるボッシュの横顔に見入った。
 綺麗で、整った顔立ちだ。
 こんなに綺麗な人を、リュウは今まで生きてきて、彼のほかに見たことがない。
「ボッシュ、ごめんね」
「ハア?」
「怒ると、思うけど、おれ……」
 リュウは薄く目を閉じて、ボッシュの肩に、甘えるように額を摺り付けた。
「ああもう、なんかすごく、幸せだあ……」
「…………」
 ボッシュは馬鹿じゃないのもふざけるなも言わないまま、ただ黙ってリュウを抱いたまま、執務室の扉を開けた。
 身体がふらふらと揺れるのが心地良くて、ついまどろんでしまうと、ボッシュに寝るなと何度か小突かれた。







(もうほんとに、へんな冗談ばっかり言って……)







 睡魔に浸蝕されながら、リュウは目を擦って、ぎゅっとボッシュの肩に抱き付いた。
(こ、子供、とか……おれ、男なのに)
 でも身体は、今は確かに女の子のものなのだ。
 これってどうなんだろう、とぼんやり思いながら、リュウはちょっと不安になった。
(でも、身体はこんなだし……どうしようボッシュ、冗談でそんなこと言って、ほんとにそんなこと……ええと、なっちゃったら……すごく困るんじゃ、その)
 好きな人、きっと怒るよ、とリュウは思った。
(……だいじょうぶだよね、おれ。元に……)
 元に戻れるよね、と自問して、リュウはなんだか怖くなってきた。
 ほんとは、もう二度と元の身体に戻れず、女の子のままで――――1000年このままでいるんじゃないかとか。
 そしてそれを本当はどこかで理解しているんじゃないかとか、思ったのだ。
(早く壊れちゃえばいい)
 幸せでいられる今の内に、何もかも諦めることができている今の内に、心も記憶も全部壊れてしまえばいい。
 そう思いながら、リュウは目を伏せた。
 ボッシュが階段を上りきると、自室のドアが目に飛び込んできた。













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