「なにそれ?」
 リュウはきょとんとして、ボッシュの手元を覗き込んだ。
 珍しくプラントで彼の姿を見掛けて――――普段は面倒だと言って近寄らないのだが――――駆け寄ってみると、彼はどうやら技術者たちに混じって設計図と睨めっこをしているのだった。
「……オマエ、どっか行けよ。どうせバカだから見てもわからないよ」
「うう……わ、わかんないと思う……」
 リュウが項垂れると、技術者たちはなんだか慌ててしまって、どうすればいいのだろう、という顔をしている。
 オリジンが苛められている姿など、確かに普通は珍しいものなのかもしれない。
「……ちょっとの間、こっちに掛かれないからさ。きりのいいところまで進めてやろうと思ったんだ。俺がここにいるとおかしいかよ?」
「え? いやそんなこと、ぜんぜん……!」
「顔に書いてあるよ、日和見オリジン」
「う……うん、ちょっと思ってた……ゴメン……」
 リュウはしゅんとして、俯いた。
「ボッシュがプラントまで来るの、あんまり見たことなかったから」
「オマエが死んでる間なら、死ぬ程通ってたよ」
「え、そうなの?」
 意外なことを聞いて、リュウはぱっと顔を上げて、まじまじとボッシュの顔を見つめてしまった。
 その疑わしげな仕草に、ボッシュは顔を顰めて、お手上げ、みたいないつものポーズを取った。
「オマエ、俺がオマエが死んだからって泣き暮らしてたとでも思ってんの?」
「それは……ないと、思うけど……」
 正直そんなボッシュが思い浮かばなくて、リュウはふるふると首を振った。
 少しは悲しんでくれたらな、とは思うが、こればっかりは仕方ない。
 ボッシュはそういう人だ。
 彼は肩を竦めて、設計図に目を戻した。
「そりゃそうだろ。こいつに関しては、ほんとにほんとだ。人が空を手にするってこと」
「……なんなの?」
「オマエに言ってもわかりゃしないよ」
「わ、わかるかもしれないよ! おれ最近、昔よりはちょっとは賢くなって……」
「ハイこれ。何て読む?」
「え、えー……とんでいくき?」
「ブー、残念。バーカ」
「…………」
 小突かれて、もうおまえどっか行ってろと言われ、リュウはしょんぼりしてしまった。
 プラント視察も終わって、昼食もまだだったし、一緒に食事でもどうかななんて思ったのだが、ボッシュは設計図の前から一歩も動く気配がなかった。
 昔からボッシュという人はそうだった。
 集中すると飲まず食わずで、最後までやり遂げるまで絶対に動かない。
「……あんまり無理、しないでね?」
 ちょっと心配になって、リュウはボッシュにそう言った。
 ボッシュはもうリュウを視界から完全にシャットアウトしているみたいで、細くて長い指で、優雅にシンプルな直線を引いた。
 まっすぐに引かれた線は、いくつも絡まりあって、複雑な図形を表していた。
(なんだろ……魔法陣かなあ)
 魔法に関しては、リュウには良く解らない。
 剣一本で生きてきたせいだろう、文字などはようやっと読み書きできるようになったが、あればっかりはいまだにさっぱりわからないのだ。
 ニーナやクピトはすごいと思う。
 そう言えばボッシュもグレイゴルを使えるのだ。
 はー、と尊敬の溜息を吐いて、リュウはボッシュを見た。
 何でも完璧にこなせる、すごい人なのだ。
「……オマエさっきから邪魔だつってんだろ。気が散る。どっか行け」
「あ、うん。じゃあ……ええと、手伝うこととかない?」
「ないない」
「あ、ごはんは? お腹すいてない? だいじょうぶ? 何か買ってこようか?」
「…………」
「い、いらない……?」
「……クイーンベリータルトが食いたい」
「あ、うん!」
 リュウはぱあっと顔を輝かせて、笑顔で頷いた。
「待ってて! すぐ買ってくるね!」
「ホールで。クリームも付けろ」
「わかった!」
「……犬だね、おまえ」
 ボッシュが呆れたみたいに言ったが、リュウは彼に何かしら仕事を与えられたことが嬉しくて、すぐにプラントの技術室を飛び出そうとして――――ボッシュに呼び止められた。
「おい、リュウ」
「あ、うん?」
「戻ってきたら、資材を運べ。学者連中はひ弱だし、俺もめんどくさいから」
「うん! がんばるよ!」
 リュウはにこ、と笑って、あ、と思い出した。
「ねえ、さっきの、なんて読むの?」
「……ヒコーキ。良かったな、ひとつ賢くなって」
「うん、ありがと……で、なにそれ」
「乗物。ヒトが空を飛べるんだよ。1000年前の文献にある」
「……? 飛びたいならいつだって飛べるじゃないか。ボッシュはドラゴンだし、ブースターついてるし」
「あーあー、これだから教養の低いメスオリジン様ってやつには、男の浪漫のこれっぽっちも理解できねーんだよ」
「おれは男だったら」
 リュウは、ぷう、と膨れたが、ふと微笑んで、ボッシュに訊いた。
「……完成したら、見せてくれる?」
「当分先だよ」
「うん。待ってる」
 リュウはにっこりして、じゃあ行って来るね、と部屋を出た。
 少し振り返ると、ボッシュの背中が見えた。
 彼がものごとに集中しているところなんて見るのは久しぶりだった――――いつもはどうでも良さそうな顔をして、しかしそれでも完璧に仕事をこなしているのだが。
 大真面目な顔をして図面に向かっているボッシュなんて珍しくて、リュウは自然ふわふわと微笑んでいた。
 ボッシュのあんな顔が見られるなんて、今日はきっといい日だ。








◇◆◇◆◇







 それよりも数時間前のこと。








「街をたつ? いつ!」
「今日の夜」
 ぱん、と航空力学の書籍を閉じて、ボッシュは涼しく言った。
 ジェズイットはそれを聞いて余程驚いたようで、珍しく顔を顰めて、あいつは、と言った。
「それ、リュウは……」
「知らない。まだ」
 なんにも言ってないから、とボッシュは答えて、最後の書類にサインをした。
「ほらよ、クピト。これでしまいだ」
「……ええ、確かに」
 クピトは冷静にボッシュの署名の入った書類を受け取り、目を通して、言った。
「……お疲れさまでした。約束は約束です。ぼくらが口を出せることじゃない」
「わかってるじゃないか」
 ボッシュはせせら笑った。
 クピトは物分りが良かったが、ジェズイットの方はあからさまにボッシュを責める視線をくれていた。
「あいつをほったらかして行くのか?!」
「知ったこっちゃないね」
「……おまえさん、ちょっとあいつを泣かせ過ぎじゃあないか?」
 ボッシュは不機嫌に顔を顰めた。
 そんなことは言われなくてもわかっていると声を荒げそうになったが、飲み込んで、代わりに別のことを言った。
「関係ないだろ、オッサン。でもこれで最後だ、どうやら」
「……あ?」
 そう、最後だ。
 わけのわからなさそうな顔をしているジェズイットに一瞥をくれて、ボッシュは胸の内で繰り返した。
 そう、最後だ――――もうこれ以上、リュウを泣かせやしない。
「俺はもっと強くなる。知ってるだろ、あいつさ、バカのくせに生意気にも俺より強いんだよ」
 リュウは誰よりも強かった。
 ボッシュを倒し、空を開けた。
 リュウのあの従順さも、ボッシュに逆らうなんて選択肢も無くしてしまったのも、全て罪悪感によるものだ。
 リュウはボッシュを憐れんでいるのだ。
 それが耐えきれない。もうずっとの間、そうだった。







「力を示さなければ……俺はあいつより強くなきゃならない。じゃなきゃ、あいつはちゃんと俺を信じないよ」







『力を示さなければ……誰もぼくを見てくれない。誰も……』






 記憶の中に散り散りに存在する子供の声が、ボッシュの中に蘇り、届いた。
 あの子供は自分だ。
 ボッシュは強くなければならない。
 リュウは優しい。
 他の誰が目を逸らしても、彼だけはボッシュを見るだろう。
 その憐れみの目でもって、言うに決まっている。






 かわいそう、ボッシュ。






 ボッシュにはそれが耐えられない。







「俺はリュウより強くならなきゃならないんだよ」
 そうしてやっと、リュウに彼が望む言葉を掛けてやれるような気がするのだ。
 クピトがそのそっけなく冷静な顔を少しだけ苦笑に緩めて、言った。
「……さっさと帰ってきてくださいね。仕事はまだ死ぬ程あります」
「どうだか」
 ボッシュは肩を竦め、言った。今のは忘れろ。
 やれやれ、とジェズイットがくたびれたようにお手上げした。
「……いっそのこと帰ってこなきゃ、俺がリュウ、もらってやろうか?」
 その言葉は冗談めかされてはいるが、例えばボッシュがもしこの街に帰ってこなければ、本当にそうするだろうと知れるものだった。
 だから、ボッシュは釘を刺しておいた。
「……あいつに手を出したら、殺すよ、オッサン。オマエも、あいつもさ」
「冗談だって! まあ、リュウも結構悪趣味だよなあ。実はマゾと見た」
「あーあ、きっと何日か使い物になりませんね、リュウ」
 またいつものにやにや笑いに戻っているジェズイットと、嘆くクピトを残して、ボッシュは立ち上がった。
「もういいんですか?」
「……最後にプラントの仕事がちょっとばかり残ってる。それだけだ」
「……健闘を祈ります、ボッシュくん」
「元気でな、剣聖んとこのガキんちょ。泣いて帰ってくんなよ」
「……誰が」
 顔を顰めて、ボッシュは部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。
 元統治者のこの二人は、正直やり辛いと言っていい。
 何せ、物心ついた幼いころからの自分を知っているのだ。
 ボッシュはふと疑問を覚えて、最後にひとつ訊いてみた。
「……そういえばオマエら、いくつなわけ?」
 それについては、すぐに解答が戻ってきた。
 納得の行くものではなかったが。
「内緒です」
「永遠の18歳だ」
「…………あっそ」
 もうどうでも良い、と嘆息し、ボッシュは今度こそ、扉を開いた。















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