「リュウー?」
 ニーナはリュウの部屋の扉をノックして、少し待った。
 返事はなかった。
 変ね、とニーナは首を傾げた。
「どこ行っちゃったのかな……帰ってきたと思ったのに」
 もう外は暗くなっていて、一人で出掛けているのなら心配だ。
 もし誰か、例えばボッシュと一緒なら、……もっと心配だ。
 あの男はまたリュウを苛めるに決まっている。
「はいるよ、リュウ」
 ぎ、と扉を開けた。鍵は掛かっていなかった。
 主が不在のリュウの部屋は、いつものように綺麗に整頓されていた。
 あまり物も置いてない。
 書類と覚え書きの書かれたメモが束ねられてデスクの上にあった。
 あとは無造作に、纏めてボックスに入れられている剣が何本も。
 そのくらいだった。
 あまり生活臭もない。
 リュウはとてもシンプルな人だったので、部屋もあまりごちゃごちゃしていない。
 飾り気と言えば壁に大事に飾られている小さな人形くらいだった。
 それはあまり造形が良くなかったが、こう書かれていた。リュウへ。
 空に出て間もないころ、ニーナがリュウに作ってあげたものだ。
「ごはん、いっしょに食べようと思ったのになあ……」
 とことこと部屋を横切って、リュウのベッドに腰掛けて、二ーナは足をふらふらと揺らした。
 リュウがこの時間に街に降りているのは珍しい。
 メディカルセンターも終了して、街の飲食店も大体はアルコールを扱うようになっている。
 リュウはアルコールを禁止されているので(確か上機嫌で暴れるから駄目なのだ)それはあんまり考えられなかった。
「……あれ?」
 ニーナはふと気付いて、ベッドから立ちあがった。
 リュウのベッドの枕元に、何か紙切れのようなものが落っこちていた。
 執務室の書類を破いて、それにペンで乱暴に書き殴ったような――――なんだろうか?
 ニーナはそれとなしに手にとって、覗いて――――そうして、慌てて部屋を出た。
 駆け出して、けたたましく階段を降り、セントラルを出て、走った。
「ボッシュ!」
 最後に見たのは、確かプラント帰りとかで、夕暮れ過ぎ頃だ。
 彼は早足だが、今ならまだ追いつくかもしれない。
「ボッシュ、どこ?!」
 ニーナは駆けた。
 北へ、ジオフロント行きリフトはもう出ていなかったから、きっと街を出るならこの時間はそこしかない。
 まだ、間に合うだろう。走って、追い付いて、連れ戻さなければならない。
 リュウがまた泣くから。








◇◆◇◆◇







『うー、ねえね、帰ろうよ……。おれ今日はちょっと見たいテレビがあるんだけど、9時からさ、『湯煙慕情殺人事件・姉と弟の禁断の愛!!』ってやつ』
「どうでもいい。ドラゴンはテレビなんか見なくていい」
『うわー、虐待だ、偏見だ。ドラゴンだからって差別するなんて、ひどいよ。ああ姉ちゃん、たすけてえ、リンク者に攫われちゃうよう……』
「うるせえぞ、このシスコンドラゴンが。黙ってろ」
『もうだいじょうぶだいじょうぶ、ボッシュ十分強い強い。いいから戻ろうよ……。姉ちゃんの顔も見られないなんてやだ……』
「それに関しては一蓮托生だ。俺とリンクしたことを悔やむんだな」
『うー、もう悔やんでますよう。リュウが良かった! 可愛いしちゃんと懐くもん。どこかのボッシュと違ってさ。あ、でもアジーン姉ちゃん、怒るだろうなあ……』
「あいつのことは口にするな。……あと、その口調やめろ」
 ボッシュは努めてまともに取り合わないように、冷静に頭の中に響くチェトレの声に応対した。
 膝まである下草を踏み潰して、進む――――夜の森は危険だったが、ボッシュにとってはなんてことはなかった。
 最強のドラゴンに、脅威などなにもなかった。
 あるとすれば、それは自分の中にある厄介な感情だ。
 ボッシュは舌打ちした。
(リュウ……)
 また泣かせた。
 それもきっと今までで一番ひどい。
 あのまま抱きしめて、もうどこへも行かないと言ってやりたかった。
 俺のものになって俺のそばにいろ、好きだって言えよと言いたかった。
 そうできればどんなに良いか、だがボッシュは言えなかった。
 抱きしめてもやれなかった。
 もっと強くならなければならない。
 顔を見れば泣かせてやりたくなって、傷付けてやりたくなって、だが優しくしてやりたい。
 どうしたいのか、自分でもわからなかった。
 リュウはどうしたろうか。
 あれからまだ呆然と立ち尽くしたままだろうか。
 そのまま風邪なんか引きやしないだろうか――――まだ、泣いているだろうか。
『ボッシュ、リュウ、心配?』
 チェトレがリュウと全く同じ口調で聞いてきた。
 多分嫌がらせかなにかだろう。
 ボッシュは顔を顰めて、ふざけるな、と言った。
「ふざけるな、……当たり前だ。……俺は、あいつを愛してる」
『傷心のあまり、他の人に付け込まれてほだされてなきゃいいけどね。ほら、ニーナとかトンガリくんとか、なんかいろいろ』
「…………」
『ねえ、心配でしょ? だから帰ろうよ、もう、迎えに来てよ姉ちゃあん……』
「てめえはまたそれかよ……ちょっと黙ってろ」
 ボッシュは忌々しく吐き捨てて、獲物を狙ってやってきた野生ディクを蹴飛ばした。








◇◆◇◆◇







「容態は」
「わかりません……なにせ、何の反応も……」
「そうですか……ともかく、どこで?」
「街の北の……発見者はプラントの作業員です。仕事帰りに発見して通報を」
「北か……追い掛けて行ったと思ったら、何をされたのやら……」
「は?」
「いえ、こっちの話です。もうセンターへ?」
「は、はい。しかし手を尽くそうにも、なにも……」
「僕が行きます。案内を」
「は、はっ!」
 クピトは顔を緊張に強張らせ、メディカルセンターの医師に連れられて、特別治療室に入った。
 そこに彼――――彼女は、確かにいた。
「リュウ?」
 呼び掛けて、クピトは眉を顰めた。
 リュウは反応らしい反応もせず、ただうっすらと瞼を開いていた。
 そこにあるのは、ただの空虚だった。
 からっぽの人形みたいな目だった。
「お怪我はありません。ただ、誰が話し掛けても何の反応も――――もしや、何者かに狙われたのでは」
「……少し退室してください。調べてみます」
「は、はい!」
 医師は恐縮して、頭を下げた。
「あの、クピト様……」
「……ええ」
「オリジン様は、元に戻られますよね? もう二度と、あんなことには……」
「……ええ。この人、丈夫なだけが取り柄ですから。きっと何度でも生き返ってきますよ」
「は、はい……安心、しました。失礼いたします」
 深々とまた頭を下げて、医師は命じられた通りに退室した。
 クピトは小さく溜息を吐いて、リュウの額に触れた――――少し覗いてみよう。こういうのはメディカルセンターよりも、クピト向きの仕事だろう。
 相手の精神に潜り込むなんてことは、普段はあまりやらない――――人間の精神というのは案外脆いもので、覗いてやっただけで壊れるか、発狂してしまうかなんてこともあるのだ。
 だが、リュウだけは別だった。
 クピトはそれを知っていた。
 さすが適格者だけあって、いや、リュウが特別なのかもしれない――――特別に優し過ぎるのだ。
 竜を呑み込み、死者たちを呑み込み、彼は全てと共存し、寄生させ、生かしていた。
「……あれ?」
 クピトは眉を顰めた。
 どうも感触がおかしい。
 リュウの中は、空洞だった。
 覗くべき心が見当たらなかった。
 リュウという個人の無意識が、以前は確かにここにあったはずだ。
 だが今は、ただの寂れた穴倉だった。
 ただ深く、底へ底へと続いて――――きっとその先には、死者たちの楽園があるだろう。
 穴倉のどこかには、竜もいるのだろう。
 いつもとそれらは変わらないだろう。
 ただリュウの心だけが、そこだけが陥没したように欠落しているのだった。
「リュウ?」
 クピトはもう一度呼び掛けた。
 返事はなかった。
「リュウ、どこですか?」
 リュウの姿が見えない。どこにも。









◇◆◇◆◇









 プラントを抜けて、ニーナは街道に出た。
 そこから見えるメディカルセンターの明かりは、いつもならもう真っ暗になっているはずなのに、めいっぱい明るかった。
 そう言えば、広場がやけに騒がしかった。
 なんだか今日は、街が慌しい――――なにかあったのだろうか?
 道を北にまっすぐ駆けていった。
 その先には森がある。
 きっとボッシュもそこを通ったはずだ。ニーナは確信していた。
(はやく連れて帰らなきゃ、リュウが泣いちゃう……)
 夜の森は危険だと、ニーナは知っていた。
 それに、ちょっと怖い……お化けなんてのが出るかもしれない。
 唇の端をきつく結んで、勇気を振り絞って、ニーナは森に足を踏み入れた。
 ボッシュがいなくなったら、リュウはきっと泣くだろう。
 ニーナはリュウが泣くととても悲しいだろう。
 それに比べたら、そんな恐怖なんてものはなんでもないのだ。















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