その部屋には誰もいなかった。
薄明るい光がカーテンから零れて、朝が近い。夜明け前。
シーツがだらしなく床に落ちて、蛍光色の薬液が床に零れていた。
ぶつぎれになったコードが散乱していた。
誰もいなかった。
窓が微かに開いて、夜明け前の冷たい空気が彼女の鼻をくすぐった。
少し湿った匂いがした。
今日はまた雨が降るかもしれない。
大きな雨雲が遠くのほうに見えた。しばらく降り続けるかもしれない。
部屋には誰もいなかった。
ニーナは戸惑ったふうに部屋に踏み込んで、空のベッドと千切られた点滴と開け放たれた窓を交互に見つめた。
誰もいなかった、リュウも、ボッシュも。
「リュウ? ……ボッシュ?」
その日、街から彼らの姿が消えた。
◇◆◇◆◇
「雨、降ってきたな……」
シェルターの入口を水没しないように封鎖して、ボッシュはシャッター越しに聞こえる雨音に耳を澄ませた。
通り雨だろう。じきに止む。
「オマエ、雨って好き?」
ボッシュは、奥まった地下室に軽く声を掛けた。
返事は返ってこなかったが、それは気にせずに、ボッシュは続けた。
「俺は嫌いだ。冷たいし、じめじめするし……髪も濡れて縺れるし。下手に大雨が降るとシェルターごと水没して、出るに出られなくなるし……」
指折り数えて、ボッシュは肩を竦めて、でもまあいいんだけど、と言った。
「オマエが好きだって言うなら、俺もわりと、嫌いじゃないよ。雨上がりには虹も出るし……」
立ち上がり、階段を降りてすぐに、彼はいた。
ボッシュは泣きたいのか笑い掛けたいのか自分でもわからない微妙な表情をして、ぼろぼろに摺り切れたソファに座らせているリュウを、後ろから抱きしめた。
「……止んだら、外に連れてって見せてやるよ。まあ面白いもんでもないんだけどさ」
空になった栄養パックに目を向けて、腕に繋いでやった点滴の管を引っこ抜いてやった。
街から頂戴してきたものだ。
確かリュウは注射が苦手だった。
刺すぞ、刺すぞと脅されるのが苦手らしい。
だが針を刺され、引き抜かれてもリュウは何の反応もしなかった。
ただ虚ろな目を開いて、虚空を見つめ続けている。
その視線の中にはなにもなかった。ボッシュさえも。
◇◆◇◆◇
そして数日が過ぎた。
雨は予想以上に降り続け、危うく以前そうあったように、シェルターの入口が封鎖され掛けていた――――増水で、川に半ば浸かってしまっていた。
森が水浸しになってしまっていた。
ここ何日か、ずうっと暗いシェルターの中に缶詰状態だった。
閉鎖された空間というものにボッシュはとても馴染んでいたが(なにせ生まれて16年暮らしたのが地の底であったので)普段なら辟易としていたはずだ。
だが今のボッシュからは退屈というものが消えていた。
暇さえあればリュウに話し掛け、彼が答えることはなかったのでそれは一方的なものだったが、それで構わなかった。
元よりボッシュは、リュウもお喋りな性質ではなかったし、沈黙が我慢ならない種類の人間でもなかった。
そして何よりボッシュにとって救いとなったのは、リュウは完全に死んでしまったのではないということだった。
「見ろよ、リュウ」
呼んで、手を差し伸べてやる。何の反応もない。
ボッシュは辛抱強くシェルターに出戻って、ソファに虚ろな目をして座り込んでいるリュウの腕を掴んだ。
「外だよ。雨、止んだみたいだぜ」
リュウは俯いたままだ。
返事をしない。ボッシュの言っていることが、わからないのかもしれない。
「しょーがねーな……ほらよ、運んでやるよ」
リュウの身体を抱いて――――先日からずっと思っていたのだが、彼の身体はすこぶる軽い――――ボッシュはそのシェルターを後にした。
空に出てから割合長い間留まった場所だった。
確か、初めてリュウの身体に触り、無理矢理無茶苦茶に傷付けながら犯してやったのもここだ。
だがリュウは何の反応もなかった。
もうそんなこと記憶にはないのだとばかりに、何も感じていないようで、表情がすっぽりと欠落したままだった。
ボッシュは苦笑して、リュウの虚ろに開かれたままの目尻に、頬に、額に、唇にキスを落とした。
それでも何の反応もなかった。
階段を上り、開け放たれたシャッターの向こうには小さな川が出来ていた。
そのへりに座り、ボッシュはリュウを膝に抱いた。
空を見上げた。
雨上がりの上空には大きな虹が出ていた。
「見てみろよ、虹が出てる。オマエ、確か好きだったろ、リュウ」
リュウの手を取り、繋ぎ、そうしてボッシュはリュウに静かに囁き掛けた。
「……俺ぁボッシュだよ、リュウ。わかるか?」
そうすると、リュウの手が微かにぴくんと震えた。
ボッシュは少し安堵したように微笑した。
「好きだよ、リュウ。このボッシュが――――オマエを守る。もう泣かせやしない。1000年ずうっと……」
リュウは相変わらず虚ろで人形のようだったが、ボッシュの名前に少しだけ反応するようになった。
彼の中に、ボッシュはまだ欠片でも残っているだろうか。
例え身体だけになったとしても、その身体を支配した魂は、もう飛び去ってしまった後も、記録として残滓として残っているだろうか。
「ずうっと愛してる、リュウ」
ボッシュはぎこちなく微笑んだ。
めいっぱい優しくしてやる。
どうすればいいかなんてことは知らないが、リュウがそうするようにしてやればいい。
不完全で曖昧なものだが、ボッシュは精一杯リュウに優しくしてやろうと努力した。
例えリュウがもう何も感じることがないとしても、ボッシュはそうするしかないのだ。
◇◆◇◆◇
また何日か過ぎた。
日が経つにつれ、少しずつ、本当に僅かずつ、リュウには変化が現れた。
注意深く見ていなければわからないほどの、微妙なものだ。
「ただいま、リュウ」
旧世界のシェルターは、森の中にごろごろしていた。
1000年前、世界中の人間が、それぞれ地下に潜ったのかもしれない。
ボッシュやリュウと言った人間は、その中で奇蹟的に生き延びることができたものたちの子孫なのだろう。
地下に街を造り、繁栄し、今彼らがいるシェルターは寂れてしまっていて、どうしても人が生存した跡には見えなかった。
焼け焦げた跡がそこここに見えた。
地上から火攻めにでもされたのかもしれない。
地下に戻り、ボッシュは散策で得た果実をいくつかリュウの前に広げた。
「オマエ、どれ食う? こっちの青いのがオススメだ。美味いぞ」
そうすると、リュウに僅かな変化が現れた。
まだ虚ろなままの目を少しすうっと眇めて、唇をわななかせたのだ。
ボッシュは辛抱強く、リュウの唇が音を紡ぎ出すのを、待った。
「……っ、……っ、ゅ……」
それは掠れた吐息でしかなかったが、リュウは自分の名を呼んでいるのだ、とボッシュは確信していた。
だから、震える指先を不器用にふらふらとさせるリュウの手を取り、身体を抱きしめて、背中を擦ってやった。
「……ここにいるよ、リュウ。手、繋いでやる。どこへも行かない……」
そうすると、リュウはほんの少し安堵したように、ボッシュの腕に寄り掛かって目を閉じた。
そんな微かな、本当に小さな変化が、いとおしくて仕方がなかった。
リュウが愛しかった。
こんなになるまで素直に好きだなんて言ってやれなかった自分を嫌悪しながら、だがボッシュはやっとこうやってリュウを本当に手に入れることができたのだ。
それは幸福なことであるはずだった。
例え、もうボッシュを愛したリュウが帰ってこないのだとしても。
「メシにしようぜ。腹減ったろ。こういうことに関しては、何せ誰かのおかげで慣れて――――」
またつい皮肉ってしまいそうになって、ボッシュはその先を飲み込んで苦笑した。
「悪い、もう苛めやしないよ。まあ任せろ。毒性はない。ていうかオマエは平気か。ドラゴンだし」
くすくす笑って、ボッシュは真っ青な木の実を齧った。
甘くて、少し酸味がある。それを咀嚼し、口移しでリュウに与えた。
リュウの喉が微かに動いて、与えられた果肉を飲み込んだのが知れた。
そのまま往生際悪く舌で彼の口腔を掻き混ぜてから、ボッシュは苦笑混じりに目を細め、リュウの胸に額を擦り付けた。
「大好きだよ、リュウ……」
こうなってやっと、ボッシュはリュウに素直に告げてやることができた。
「……ずっと一緒にいような。ずーっと、ずーっと一緒にさ。1000年先まで、こうやって……」
ボッシュは笑った。
「手を繋いでような、リュウ」
返事は返ってこなかった。
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