少しずつ意思が構築しはじめた。
ばらばらに崩した積み木を一から積み直し、新しいかたちを作っていくように、リュウには少しずつ感情の色が――――それにしても、まだ薄っぺらいものだったが――――見え隠れしはじめた。
ボッシュが少し離れただけでとても不安そうに眉を顰めるようになった。
まだ口はろくにきけないようだったが――――
「……、しゅ……」
腕を伸ばし、一緒に連れてってとでも言いたげに、リュウはその無表情の瞳を、心持ち上目遣いで、ボッシュに向けた。
「……シェルターの中で待ってなよ。メシ、探しに行くだけだ。オマエがついてきてもなんにも面白くないよ、リュウ」
ボッシュが諭してやっても、リュウは緩慢に首を振り、やだ、という仕草をした。
そこには確かに感情があった。
リュウに上書きされた新しいものなのか、もしかしたら少しずつ自我を取り戻しつつあるのかは知れなかったが、ボッシュに縋るその仕草は確かにリュウのものだった。
不安そうな目もそうだ。
ボッシュはリュウを抱きしめてやって、まったく、と溜息を吐いた。
「置いてかないって。そんな不安そうな顔すんなよ」
「……あ……っう、……ぉ、しゅ……」
たどたどしく、それでも必死なふうに、リュウはボッシュのコートの裾をぎゅうと掴んで、懇願するように見上げた。
「……ホントに、かわいいね、オマエ」
額に軽く口付けてやると、リュウはびっくりしたように目を開いて、不思議そうにキスを落とされた箇所を押さえた。
軽く苦笑して、ボッシュはリュウの髪に触りながら、言った。
「……いいぜ。手、繋いでこうか?」
リュウは良くわからないふうな顔をしていた。
まだボッシュの言葉を、上手く理解することができないようだった。
「ほら、手――――」
リュウの手を取り、繋いでやる。
だがリュウはびくっと震えて、ボッシュから離れようとした。
「……リュウ?」
リュウの表情には、珍しくある種の感情の色が見て取れた。
恐怖である。
彼はぶるぶると震えていた。
まるでボッシュの腕がとても恐ろしいものであるように、目をいっぱいに見開いて、ボッシュから逃げようとしたのだ。
「リュウっ?!」
肩を掴んで抑えると、リュウはきつく目を閉じて、そこに座り込んでしまった――――どうやら余程怖いようで、自分の両の肩を抱きしめてしゃがみこんだまま、かたかたと震えている。
「……あ……あああっ、ああ……」
ものすごく怖いことがあったような、ただ意味を成さない虚ろな声だけがリュウの唇から零れた。
「リュウ……」
ボッシュはしゃがみ込んだリュウにおずおずと触れた。
リュウは目をぎゅうっと閉じて、まだ怯えたように震えていた。
ボッシュを突き放しはしなかったが、彼は純粋な恐怖を見せ付けていた。
ボッシュは正直、困ってしまった。
「なんにも、ひどいことは、しねえよ……もう二度とさ。怖がるなよ」
抱き締めてリュウの顔を上げさせると、彼の頬が濡れていた。
驚いたことに、泣いていたのだ。
恐怖と絶望にめいっぱいに顔を歪めて、リフトに迷い込んだ小さな子供みたいに、ただそれよりはいくらも静かにリュウは泣いていた。
感情が彼に訪れる。それは何だって素晴らしいもののはずだった。
だがボッシュは眉を顰めて、苦しげに声を絞り出して、言った。
「泣くなよ……なあ?」
もう泣かさないと決めていたのに、ボッシュは困惑してしまっていた。
リュウはまた、ボッシュの手を振り払って逃げようとした。
まるで今からどんなにひどいことをされるのかを知っているというふうに、手を繋いで、それは突き放す為だと知っているふうに、リュウはボッシュから逃げようとしたのだ。
ぱあん、と乾いた音が響いて、それは始め少し遠くの方で聞こえたように思った。
リュウは諦めたように虚ろな目を伏せて、ボッシュの腕の中でぐったりとなっていた。
頬には赤い痕がくっきりと浮いていた。
そうなって、やっとボッシュはリュウの頬を引っ叩いてやったのだ、と気が付いた。
「リュ……俺、は……」
手のひらを呆然と見つめて、ボッシュは震えた。
またリュウを傷つけたのだ。
リュウは諦めたように大人しくなってしまって、ボッシュの腕の中にいた。
彼の小さな、柔らかい身体をぎゅうっと抱き締めてやって、ボッシュは縋るようにリュウの名を呼んだ。
「リュウ……ごめんな、リュウ……上手く、できねえんだ。優しくってさ。どうすりゃいいのか……俺……」
リュウの首筋に顔を埋めて、その声は湿り気を帯び始めていた。
本当に、泣き出したい気分だった。
何もかもが、上手くできない。もどかしかった。
ちゃんとリュウに優しくしてやることもできない。
「手を……もう離さない。ちゃんと、繋いだままでいるよ、振り解かない……」
ボッシュはそうやってリュウを抱き締め、彼に懇願した。
「逃げんなよ……逃げないでくれ、頼むから……」
そうして、泣き出してしまった。
ボッシュは、自分がこんなに情けないことができる男だとは知らなかった。
リュウは泣いてしまったボッシュに反応らしい反応も見せず、ただ虚ろに人形のようになって、抱かれるままでいた。
いつものように。だが、
「――――っ?」
ボッシュは目を疑った。
リュウはおずおずと手を伸ばして、ボッシュに触れた。
まずは頭に、子供にするようにゆるやかに撫でた。
彼自身、この仕草の意味がわかってはいないようだった。
不思議そうな顔をしている。
だが、リュウならきっと泣いているボッシュを前にすればそうするだろう、そういう仕草だった。
それから少し気後れしたように手を伸ばし、ボッシュの腕に触れた。
手をきゅっと握り、繋いだ。
リュウは微かに、見て取れるものとしてはぎりぎりの、不安そうな顔をしていた。
ボッシュはそれに気がついた。
表情の抜け落ちた彼の顔をもう見慣れてしまって、ほんの僅かな変化が鮮やかに目に映るようになった。
「手……繋いで、くれんのか……?」
リュウは返事をしなかった。
ボッシュの言葉が、あまりよく理解できていないのかもしれない。
だが言葉なんてものはどうだって良かった。
ボッシュはくすくす笑いながら、泣きながら、リュウを抱き締めた。
「はは……、はははは……」
彼がいとおしかった。
とても大事なもののように思えた。
「はは、リュ、ウ……」
ボッシュは、もう世界にリュウとふたりきりだった。
同じ人にあらざるものとして、そして愛すべき人間として、たったひとりきりの。
「好きだ……」
強張っていたリュウからは少しずつ力が抜けて、ボッシュに身体を預けるようになった。
そうして、ようやく安堵したような表情になった……きっともう二度と、この繋いだ手を振り解かれることはないんだと、やっとそう気付いたように。
◇◆◇◆◇
手のひらで掬った水を頭から掛けてやると、彼はきゅっと目を閉じ、つめたい、というふうにぶるっと震えた。
「ガマンしなよ、このくらい……おとなしくしてろ」
リュウはそう言われて、ほんの少し不服そうだったが、結局はおとなしくボッシュの言う通りにしていた。
彼は従順だった。
そこは小さな泉だった。
深さは座ってやっと腰くらい、リュウは少し冷たい水に抵抗があるようだったが、何も言わないままボッシュにされるがままになっていた。
「キレイにしてやるっつってんのに……なに、オマエ水浴びとか嫌い?」
リュウは良くわからなさそうに、ふるふると首を振った。
「ほっとくとすぐ泥だらけになってさ。オマエ、手、繋いでやっててもすぐこけるし。まあいいんだけど」
「…………」
「俺? まずオマエを済まさなきゃどうにもならないだろ。別に一緒に入ったって、良かったんだけど」
「…………」
「……なんにもしないでいる自信、ないしさ。オマエに」
「…………」
「ああ、そろそろオマエのコート、ボロボロだな……そのうち物資補給車両から服でもいただいてきてやるよ」
「…………」
「なんだよ。構わないさ。……その目、やめろよ、バカ」
軽くリュウを小突いて、ボッシュはにっと笑った。
「俺の言うこと、わかるか?」
「…………」
リュウは、本当のところ良くわかってはいなさそうだったが、小さくこくっと頷いた。
「そっか」
だがボッシュは構わなかった。
リュウがこうして、ボッシュに庇護されなければなんにもできない状態ではあったが――――いや、それも含め、気に入っていたと言うべきだろうか?
話し掛けてやっても何の反応もない、あの人形みたいな虚ろな目よりも、ボッシュはずうっとこのリュウを気にいっていた。
もしかすると、
「なあリュウ。俺のこと、好きか?」
「…………」
「……なんでそこで首傾げんだよ、バカ」
もしかするとリュウはいつか、またボッシュに好きだなんて言ってくれるかもしれない。
愛してくれるかもしれない。
身体に触り、中に入ることを許すかもしれない。
そう、もしかしたら訪れる未来を空想するだけで、ボッシュからは絶望が薄れていった。
ボッシュの感情はリュウの仕草ひとつに左右された。
どうしようもなく、彼がいとおしかった。
「大好きだよ、リュウ」
ボッシュは笑った。
上手く笑えているかどうかは知らないが、こうしていれば、いつかリュウは笑うかもしれない。
ああやっていつも馬鹿みたいに笑ってばかりいたリュウのおかげで、ボッシュがこうして笑えるようになったのと同じように、いつかは――――。
「ん? どうした?」
「…………」
リュウはまた裸の胸に水を掛けられ、冷たそうに目を細めた。
ボッシュの顔を不思議そうにじっと見つめて――――そうして、微かに、微笑んだ。
それは笑顔ではなかったかもしれない。
ただボッシュの表情を模倣しただけなのかもしれない。
だがボッシュは服が濡れるのもかまわずにリュウをぎゅうっと抱き締めて、乱暴に頭を撫でてやった。
「そう、それ、リュウ。もっと見せろよ。かわいいよ、オマエ……」
リュウはちょっとびっくりしたような顔をしていたが、また少し、笑った。
なんだかちょっと、泣けてきた。
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