リュウという人間は、どうなろうが、例えば何回か死のうが心が壊れてしまおうが、頭が悪いことに変わりがなかった。
 きっとそれは生まれつきのものだったろう。
 脳味噌のせいだったかもしれない。
 魂があるとすれば、それも悪いのかもしれない。
 彼はどこまでも、肉体も精神の奥深くまでもローディだったからだ。
「リュ、ウ。オマエいい加減自分の名前くらい覚えなよ……」
「うー……ル、ルー?」
「リュウだっての」
「リュ……んと、ルー……む、むずかしいね……」
 困りきったふうで、だがそれはわざとやってる訳ではない。その顔は必死だ。
 ボッシュは半分ほど諦めながら、リュウに訊いてやった。
「ハイ、オマエの名前は?」
「ボッシュ=1/64!」
「そりゃ俺だ、このバカ」
 こつん、と額を小突いてやるとリュウは頭を抑えて、なんか違ったっけ、というふうな不安そうな顔をした。
「なんで俺の名前は覚えてんのに、自分の名前は……ていうか、「ボッシュ」より「リュウ」の方が覚えやすいだろ、絶対」
「うー、ボッシュ……」
「……ハイハイ、怒ってない怒ってない。まあいいけどさ、オマエはリュウ=1/8192だ。つっても……数字とか、まだ読めねえよな……バカだから……」
「すうじ……なに?」
「いいよ、そんなの。知らなくても生きていける」
「……? ふうん」
 森の中である。
 雨ばかり降って、近くの川が氾濫したようで水浸しだ。
 ところどころ、地面が完全に水没している。
 黒い水面から木々が半分ほど顔を出しているさまは、何とも奇妙な風景だった。
「うー……」
 気温はそう高くない。だが低くもない。
 雨に降られてびしょ濡れのせいだろう、リュウは着せてやっただぶだぶの白いシャツの前を合わせて、ぶるっと震えた。
「どうした。寒いか?」
「ん、へいき……」
「オマエ、まあた雨降ってんのに外に出たろ。風邪でもひいたらどうすんだ」
「……カゼ? なに?」
「病気だ。教えたろ、苦しいんだよ」
 少しずつ、少しずつ、ボッシュの言葉への反応は、はじめは本当にわずかなものだった。
 ボッシュの気配に目を開け、虚ろな目で宙を見るようになった。
 触ってやると安心したように目を閉じ、離れると不安げな顔をするようになり、そうしてやがてリュウは言葉を取り戻した。
 その時間は、ボッシュにはほとんど永遠のように感じられた。
 微かな変化を愛し、そうして過ごした。
「オイ、あんまり遠くへ行くなよ。もうすぐ出るんだから」
「あ、もう? ん、いく。どこいくの、ボッシュ?」
「さあ。全然決めてない」
 ボッシュは肩を竦めて、リュウに手を差し伸べてやった。
 リュウはにっこりして、当たり前のように手を取った。
「別にどこでもいいよ。このままずーっと歩いて行ってさ、海を見にいくのもいい。空の果てまで行くのもいい」
「ウミ……なに、それ?」
「見りゃすぐわかるよ」
「おれは今知りたいの! ね、どんなの?」
「塩水の湖、らしい……それもものすごくでっかいやつ。俺もまだ本でしか読んだことない」
「へー……サカナ、いるかなあ、ねえ?」
「オマエその釣りとか言うじじくさい趣味どーにかなんないの? しかもへったくそだし」
「うー……でも、楽しいよ」
「……まあ、そうだな。いるよ。そんなでかい湖なら、いくらでもさ。すげえでかいのもいるかもしれないぜ」
「ほ、ほんとに?」
「ああ、多分。いっぱいいるから、へたくそのオマエでもきっと大丈夫だよ」
「ほんとにほんと?」
「たぶん」
「楽しみだねえ!」
「そうだな」
 にこおっとリュウが子供そのものみたいな顔で笑ったので、ボッシュはついおんなじように微笑んで、リュウの手を引いて歩いた。
「……でも俺、オマエと一緒なら、――――離れ離れじゃなきゃ、別にどこだっていいんだよ」
「えー、なんで? はなればなれになんて、なるわけないよ」
 リュウは真剣な顔をして、なんでそういうこと言うかなあ、と言った。
「おれたち、世界にふたりきりなんでしょ? ずーっと一緒だよ、ボッシュ。はなれたら、ひとりになっちゃうよ。そんなのいやだよ」
 その未来を空想したのか、リュウの目にはじわっと涙が溢れてきた。
 ボッシュは慌てて、リュウに大丈夫だと言ってやった。
「大丈夫、心配ない。俺はオマエを置いてかないし、手を繋いでやるよ。だから、泣くなよ……」
「うー……だ、って、おれがもし、まいごとかに、なって……」
「その時はすぐに探して、見付けてやるよ。大丈夫だよ、手を離さない。一人にしない」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。いいか、リュウ。ずーっと、俺のそばにいなきゃならないんだからな」
「うー……」
 リュウは目をごしごしと擦って、何度も頷いた。
 不安が過ぎ去ってしまうと、リュウはまた少し微笑んで見せた。
 その顔は可愛くて、ボッシュは自然、なんだか頬が熱くなってくるのを自覚した。
 ポーカーフェイスが得意だったはずだが、このリュウの前ではそれは何一つ役立たずだった。
「いるよお」
「いいか、ほんとだぞ。オマエは俺の嫁なんだから……」
「……嫁ってなに?」
「約束だよ。ずーっと一緒にいられるんだ。ずーっと、さあ……」
 ボッシュはにっと笑って、リュウの手を強くぎゅっと握った。
「ずーっと、一緒にいような!」
「うん、いるよー!」
 リュウは底抜けに明るい、バカみたいな笑顔でもって、ボッシュに答えた。
 それとおんなじ、ただ少しぎこちないふうに笑って、ボッシュはリュウに訊いた。
「俺のこと、好き?」
「だいすき!」
「どのくらい?」
「んー、いっぱいだよ。ええとね、あ、そうだ! すごいおっきい一つ目ダコが釣れた時! あれとおんなじくらいすき!」
「……それ、俺はほんとに愛されてるのか?」
「え? 「すき」と「うれしい」はいっしょじゃあないの?」
「ちょっと違う。あのな、リュウ。そういう時は、一番好きだって言うんだよ」
「うん、一番好きー」
「ほんとにわかってんのかよ……」
「あはは、ごめん、ほんとはよくわかってないかもー」
「……。いいけど。でも、俺はオマエが大好きだからな!」
「じゃあおれもボッシュがだいすきだよ!」
「喧嘩してるんじゃねえぞ、バカ。なんで喧嘩腰なんだよ」
「うー。間違ってた?」
「少し」
「うー」
 リュウは、難しいね、と顔を伏せてしまった。
「まったく、オマエはバカなんだからさ……」
「う……バカじゃないも……」
「さっきのでそろそろ名前、覚えた? 俺は?」
「ボッシュ=1/64!」
「うん、偉い偉い」
「へへ……」
「で、オマエは」
「……ルー、えっと、……はっせんなんとか!」
「……リュウ=1/8192だよ……。なんでそれが覚えられないんだ、オマエ」
「だ、だって自分の名前なんて、呼ばないも……」
 リュウはしゅんとしてしまって、もうボッシュの名前だけでいいよ、と言った。
「ボッシュが覚えててくれるなら、おれそれでいいよ……」
「良くねえよ。俺がせっかく呼んでやってるのに、オマエがわかんないとイヤだろうが」
「わかるよ、ボッシュのは」
 リュウはちょっと膨れた顔をして、言った。
「すごく遠くからでも、ちゃんとわかるもの。ボッシュがおれを呼んでるってさ、だからいつもいそいで帰ってくるよ。偉い?」
「偉い偉い。オマエ耳いいもんな。犬みてえ」
「へへ……」
 頭を撫でてやると、リュウは嬉しそうににこっと笑った。
 その顔は、素直にかわいいな、とボッシュが思ってしまうものだった。
――――リュウ」
 ふと立ち止まって、ボッシュはリュウをぎゅっと抱き締めた。
「ボッシュ? なあに?」
 不思議そうに顔を上げたリュウの額にキスをすると、リュウがひゃっと悲鳴を上げて、首を竦めた。
「わ、くすぐったい……」
「じっとしてろ」
 くすくす笑っているリュウの頬に、首筋におんなじように唇を触れて、リュウの髪に触れ、梳いて、そしてその柔らかい唇に、ゆっくりと口付けた。
 以前いつもそうあったような乱暴さはどこにもなかった。
 啄ばむような、柔らかなものだ。
 リュウは気持ち良さそうに目を閉じて、ボッシュが離れると、ねえ今のなに、と訊いてきた。
「……なんか、気持ちいいねえ……」
「気に入った?」
「ね、もっかい。もっかい、ボッシュ!」
 ねえねえ、と目をきらきらさせておねだりなんてしてくるリュウに苦笑しながら、ボッシュはリュウの望むようにしてやった。
「……キスだよ、リュウ。気持ちいいだろ?」
「ん、んー……ね、ボッシュ。これ、前もしてくれたよね?」
「……覚えてんのか?」
 ボッシュは少し驚いて、リュウの顔を見た。
 彼は笑って、きっとおれが生まれたばっかりの時だね、と言った。
「何回も、なんかいも……おれ、すきだあ、これ……」
 まるで人形のようだった時分の記憶が、リュウには確かに存在した。
 話し掛けても何の反応もしなかったあのリュウだが、ボッシュの声はちゃんと届いていたのだ。
「……ボ、ボッシュ? なんで泣くの、ねえ?」
 リュウの戸惑ったような、上擦った声が聞こえた。
 勝手に、知らないうちに、涙が零れてボッシュの頬を濡らしていた。
 何故なのかは、分からなかった。
「お、おれ、なんか悪いことした? 痛いこと、した……? ごめんボッシュ、ごめんね……」
「リュウ……」
「な、泣かないで。泣かないでよお、泣いちゃ、だめ……」
 リュウはそんなことを言っているくせに、自分が泣いてしまいながら、ボッシュの頭を抱いて、いい子だからなんて涙声で言いながら、ボッシュの頭を撫でていた。
 ボッシュは目をぎゅっと瞑り、リュウの腰にぎゅっと抱き付いて、彼の柔らかい胸に額を押し付けた。
「リュウ……リュ、ウ……」
 こうやってリュウと一緒にいる――――こんな簡単なことだったのだ。
 どうして優しくしてやれなかった。
 壊れてしまうまで、ひどくしてやることしかできなかったのだろう。
 なんで声が届かなかったのだろう。
 リュウ。
「ボ、ボッシュ……ごめんね、ごめんね、ボッシュう……」
 おれきっとひどいことしたね、ボッシュいじめちゃったね、だから泣くんだね――――リュウはそう言ってボッシュをぎゅうっと抱き締めたまま、頭を撫でて、消え入りそうな声で言った。
「ごめんね、ボッシュ……きらいに、ならないでね……」
 ボッシュは緩く首を振って、そんな不安げなリュウを見上げ、これはオマエのせいじゃないよと言おうとした。
 だが、声にならなかった。
 こんなになってもボッシュに不安にさせられるリュウが哀れだった。
「俺、が……守る、から……」
 切れ切れにそう、ボッシュはリュウに懇願した。
「強く、なるから……俺のこと、見てくれよ、リュウ。頼むから……」
 嫌いにならないでくれ、と言おうとした。
 だがリュウがあんまり不安な顔をしているものだから、ボッシュはリュウの手をぎゅうっと握った。
「手、繋いでくれ……」
 リュウはまだ目にいっぱいに涙を溜めていたが、きゅっと目を閉じ、頷いた。
「……ずーっと、いっしょにいるんだよね、ボッシュ」
 すぐに頷いて、顔を上げ、ボッシュは見た。
 リュウは本当に安心した表情で、にっこりと笑った。
 それはボッシュにも穏やかな安堵を与えてくれた。















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