『あちゃー……そりゃ、姉ちゃんが出て来ない訳だね……怒っちゃって』
水場でばしゃばしゃとアグロッサを追い掛けてはしゃいでいるリュウを、岩に腰掛けて見遣りながら、ボッシュは内なる声に耳を傾けた。
「でも俺が生きてるところを見ると、もう機嫌直してるだろ」
『いろいろぎりぎりだね、リンク者……』
「おかげさまで」
気を入れずに頷いて、ボッシュはリュウに声を掛けた。
「リュウ! そいつ、遊ぶのはいいけど食うんじゃないぞ」
「んー? ん、わかったあ」
リュウは頷きながら、じたばたしている小さなアグロッサの頭を半分ほど口に入れている。
全然わかってなんかいない。
ボッシュは腰を上げ、リュウを呼んだ。
「こら、リュウ。遊びは終わりだ。こっち来い」
「えー、やだあ、まだ……」
「俺と遊べ」
「遊ぶ!」
リュウはぱっと顔を上げてアグロッサを離し、放り出してばしゃばしゃとボッシュのもとに駆けてきた。
そのままの勢いで飛び付いてきたリュウを受け止め、ボッシュは泥だらけの彼に「あーあ」と溜息を吐いた。
「オマエまあた汚くなっちまって……」
「う……おしおき、するの?」
「そうだ」
言って、ボッシュはリュウの額を指でびしっと弾いてやった。
「いたっ」
「キレイにしときなよ。せっかく可愛いのにさあ」
「キレイ? カワイイ?」
「そ。オマエはかわいいんだから、キレイにしてなきゃ駄目なんだ。俺の嫁だろ」
「うん」
「じゃあいつでも清潔でキレイじゃなきゃ駄目なんだ。わかったか?」
「どろんこ、だめ?」
「……いや、かわいいけどさあ、それも」
「へへ、誉められた?」
「……ああ。まあいいよ、もう、なんでも」
「えへへへ」
にこにこ笑うリュウの顔は可愛くて、ボッシュは諦めて、彼の背中を抱いた。
誉められたと受け取ったらしいリュウは、嬉しそうに笑いながらボッシュにぎゅうっと抱き付いてきた。
「ボッシュう、抱っこ……」
「……眠くなったか?」
「んん……」
「だったらほら、寝ちゃえよ」
座り込んで背中を撫でてやると、リュウは気持ち良さそうに目を閉じて、瞬く間に寝入ってしまった。
「……ほんとに、子供みたいになっちまいやがって……」
ボッシュはふうっと溜息を吐いて苦笑して、リュウの髪を撫でた。
光にきらきらと照らされて、青く輝いている。
割合珍しい、綺麗な青い髪だ。
地上の太陽の下では、それは一層鮮やかだった。
この色のおかげで、ボッシュはいつでもリュウを見失わずにいられた。
下層区の街でも、基地の中でも、どこでも。
「……なあチェトレ」
『んん?』
「姉貴にいろいろ聞いたんだろ。リュウ、さ……昔はさ、どんなふうに……」
どんなふうに生きてきたんだ。どこで生まれ、親は誰で――――どんな人間で、それをボッシュが殺したというのだろうか。
彼の想いは、レンジャー時代そうあったような単純な友情が思慕へ変化したのはいつごろだったろうかとか、そういうことをボッシュは聞こうとした。
でも止めた。
「……いや、いい。今更知ったってどうにもならないよ」
ボッシュは眠っているリュウの背中を撫でた。
あたたかかった。
「昔に何があったとしてもさ、もうリュウはなんにも知らないんだ。なんにも……俺だけだ。それだけだ。もう、他のことは何にも考えなくていいんだ」
ボッシュは苦笑した。
リュウはなんにも知らなくていい。
だが、ボッシュはリュウが知りたい。
もう昔の記憶を共有できることはなかった……地下の世界をリュウは知らなかった。
それは寂しいことなんだろうか、とボッシュは考えた。
消えてしまって、ここにあるリュウが新しいものなのだとすれば、あの頃あった想いは、今はどこへ行ったというのだろう?
「……でも、俺はリュウを知る義務がある。愛してるからだけじゃない、ぶっ壊しちまったものは、取り返さなきゃならない。もうあのリュウが戻ってこないんだとしても、さ……俺は……」
ボッシュは呟いた。
「俺はリュウを知りたいよ」
記憶の中のリュウの想い出だって、いつかは彼と共有すればいい。
今はまっさらな子供だとしても。
『どこから話そうか?』
「どこでもいいよ」
融合し、溶け合い混じり合っても、ドラゴンと記憶を共有することはできない。
ボッシュには他人の記憶を受け入れ、受け止めることはできない。
確固とした自我があった。
そこには誰も立ち入らせない。
だがリュウはそうではないようだった。
その領域に無意識に他人を招き入れ、生かすことができた。
リュウの心の範囲は、容量は、巨大だった。
それは大それたことなのかもしれない。
ただ優しかったからというそれだけのことなのかもしれない。
「時間はあるさ。たっぷり、永遠に、1000年くらい。きっと、もっとあるかもな」
『おれたちには時間は永遠といっしょくたの概念なんだよ、ボッシュ』
「だろうな」
『ヒトの心はどこまで持つかな? だいじょうぶかな?』
「別に問題なんてなにもないよ」
ボッシュは微笑んだ。
「リュウがいるから」
『可愛くなっちゃって、まあ』
「……うるせえな。で、どこからだっけ?」
『ああ、そうだねえ。じゃ、19年前の――――』
『はじまったのはさ、ラボだったよ』
昼下がりのまどろみの時間は、ゆっくりと過ぎていった。
川辺の水場にはさらさら水が流れ、透明な水面はきらきらと日光を反射し、時折小さな魚が飛び上がり、跳ねた。
ボッシュは、ゆっくりとした口調で語り聞かせる内なる声に耳を傾けていた。
膝にはリュウの温かい感触がある。
ふっと微笑み、彼の頬を撫でると、リュウは眠ったまま少しくすぐったそうにふにゃっと笑った。
そこには穏やかな時間と感情があった。
ああ、もしかするとこういうのを幸せだって言うのかもしれないな、とボッシュはぼんやりと思った。
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