名前は「リュウ」という。
生まれたばかりの頃にボッシュが付けてくれたものだ。
物心ついた時にはあたたかい闇の中だった。
何故だかひどく安心していて――――それは時折身体中に触れる心地良い感触のせいだった。
誰かに身体を触られて、それはリュウをとても安心させるものだった。
リュウは守られていた。
外敵から、なにもかもから守られていた。
そして生まれる前からリュウはそれをきちんと知っていたのだ。
目が覚めて初めて見たのは彼だった。
ボッシュという名前で、綺麗な長い金髪を首の後ろで無造作に括っている。
ボッシュは優しくて、リュウが何もわからないでいる時分からひとつひとつ根気良く教えてくれた。
声を組み合わせて作る言葉、これでやっと思ったことを伝えることができる。
そして、それを更に表情と組み合わせて――――正直ものすごく難しかった。
だがそれはボッシュの真似をしていれば、自然どうにでもなるものだった。
間違えばボッシュは違うよ馬鹿と言ってリュウを小突いた。
彼は優しかった――――決してリュウにひどいことをしなかった。
この世界には「ドラゴン」という生物がいて、それはリュウとボッシュのふたりきりなのだという。
世界は危険で溢れていた。
リュウたちを餌と狙ってくるディクや、人間(これはまだ見たことがなかった)など、怖いものばっかりなのだ、とボッシュはリュウを怖がらせた。
そして、その全部から守ってやると彼は言うのだった。
目が覚めてから当たり前のようにボッシュとふたりきりで、それがリュウの世界の全てだった。
だが、時折、少しの違和感が訪れるのだった――――それは罪悪感に近いものだった。
おれこんなに「しあわせ」でいていいのかなあ、そういうものだ。
それは割かし難しい感情なので、リュウはわからないまま放り出しておいた。
ボッシュに訊いてみたことがある。
オマエはあまり頭が良くないからへんなことは考えるなよ、パンクするぞ、とボッシュは言った。
だからリュウはそうしたのだ。
パンクなんてしては大変だ。良く分からないが、痛いことらしいので、それは。
ボッシュはおかしなことに、良くリュウに「オマエは昔は……」とか「前も言ったろそれ」なんてことを言う。
リュウに昔なんてものはないが、ボッシュが言うには「きっとバカだから忘れちゃったんだよ」ということらしい。
ボッシュは良くリュウにバカバカ言うし、ちょっと意地悪だが、
「ほらリュウ、おいで。手、繋ぐの好きだろ、オマエ」
「うん!」
やっぱり、優しい。
リュウはボッシュが好きだ。
世界にふたりだけで、ボッシュがいなくなってしまったら、リュウは独りぼっちになってしまうのだ。
独りぼっちというのがどんなものなのか、考えたことがある。
すると胸が割れてしまいそうなくらい痛んで、あんまりの痛みに夜中に泣き出してしまった……ボッシュはびっくりしていた。夜通しリュウを抱き締めて、安心させるように撫でて、だいじょうぶ、どこへも行かない、と繰り返して言った。
「だからオマエもどこへも行くな。そばにいろよ。……俺を、一人にするんじゃない。いいな?」
リュウは鼻水を垂らしながら、何度も頷いた。
リュウがひとりきりでぽつんと置いてけぼりにされるのも勿論悲しかったが、リュウがいなくなって、ボッシュが独りぼっちで寂しいのはもっと耐えられなかった。
我慢できなかった。
ぜったいボッシュを一人にしないね、とリュウは言った。
ボッシュはどういう顔をすればいいのかわからないような顔をしていたが、やがてちょっと笑って、ああ、そうしてくれ、と言った。
そうしていると昔のリュウはどんなことを考えていたんだろうなんてことは、どうでも良くなってしまうのだった。
ボッシュは、リュウに触ることが好きなようだった。
頭を撫でること、キスをして、背中を撫でること、お尻を触ったり、舐めたり、あとリュウの身体の中に入ってくることも好きだった。
初めは怖かった――――ボッシュがリュウにひどいことをするなんて、初めてだったのだから。
痛かったし、だけどそうしているとボッシュはいつもものすごく照れ臭そうに言う「すきだよ」をちゃんと真面目な顔で一生懸命言ってくれるので、それは好きだった。
ボッシュが入ってくると、リュウの身体は奇妙に変化した。
ぽーっとなって、もっとずっとこうしてたい、という気持ちになってしまうのだ。
それは安心しているという感情に似ていた。
おんなじものなのかは知らない。
リュウはあまり頭が良くないのだ。
それは気持ちいいって言うんだよ、とボッシュが後で教えてくれた。
ああ、そうなんだあとリュウは納得した。
ならリュウは、その「きもちいいこと」が好きだ。
時折ボッシュは、なんにもしてないのにすごく悲しそうな顔をして、「リュウ、ごめんな」という。
なにか悪いことをしたのと聞くと、すごくしたよと答えが返ってくる。
なんにもされてないよと言えば、オマエ忘れちゃったんだよバカだからと返ってくる。
そういう時はリュウは自分が何をすればいいか、ちゃんと知っていた。
ボッシュの頭を撫でて、ぎゅっとしてあげて――――ボッシュが良くそうしてくれるように、そうして言うのだ。
「だいじょうぶ、ボッシュ。ひどくない。はい、ごめんなさいしたから、ゆるしてあげるね」
ボッシュはそうすると、泣きたいのか笑いたいのかわからないような顔になって、そうか、とちょっとほっとしたみたいに頷くのだ。
どういう関係なのだろう?
ずうっと二人でいる。
世界に二人だけ、他はどうしたのと聞くと、みんな死んじゃったよと答えが返ってくる。
なんでおれたちだけ生きてるのと聞けば、空を開けたからだとボッシュは言った。
「空って開くの?」
「……リュウ、二人だけは寂しいか?」
「なんで? おれ、ひとりぼっちはイヤだけど、ボッシュがいるからぜんぜんへいきだよ」
「……あ、そ。俺もさ、ほかに、なんにもいらないよ……」
「ねえ、なんでみんな死んじゃったの? 悪いことしたの?」
「届かなかったんだよ」
「どこに?」
「空」
「……? 空、触れるの? ねえ、ボッシュ。飛んでけば、届くの? 届いたの? そんでおれたちは生きてるの?」
「……オマエがもうちょっと賢くなったら、教えてやるよ。昔のオマエのこともさ、ちゃんと」
ボッシュはそう言って、すごく優しくリュウに笑い掛けて、頭を撫でて、ちょっと困ったふうに言った。
「だから、今はさ……もうちょっとだけ、こうしててくれよ。なんにも知らなくていいんだ。オマエはバカなんだから、余計なことなんて考えることない……」
「うー、バカじゃないも……」
リュウは頬を膨らませてふてくされると、ボッシュはいつもの顔に戻って、ハイハイ、と頷いた。
内緒だが、それでリュウはほっとしてしまった。
ボッシュがいつもどおりの彼に戻ってくれたので。
このままずうっと空の果てまで行くんだ、とリュウは信じていた。
ボッシュと二人きりで生きて行くのだ。
1000年――――それはすごく長い時間なのだとボッシュが言っていた。
永遠というものに近いのだそうだ。
リュウには良くわからないが、ずうっとずうっとボッシュと一緒にいられるのなら、それは嬉しいことだった。
リュウはボッシュが好きだった。
彼になんにもしてあげられることはなかったが――――リュウの手を引き、食事を与え、一緒に寝て――――ボッシュがいなければ、リュウは生きてはいけないだろう。
おなかが空いて死んでしまうかもしれない。
ディクに食べられてしまうかもしれない。
もっと単純に、寂し過ぎて死んでしまうかもしれない。
おれってほんとにボッシュがいないと駄目だよと言ったら、ボッシュはちょっと考え込んで、そりゃ俺も一緒だと言った。
何が一緒なのだろう?
ボッシュは何でもひとりでできたし、強かった。
リュウに与えられるものなんてなんにもなかった。
そう聞くと、ボッシュはちょっと赤くなって、もう寝ろ、と言った。
「どうして? ねえボッシュ、おれ、なんかボッシュが欲しいもの、あげられるかなあ? 何がほしい?」
「寝ろってば」
「ねーえ、なんかあげるよ! 何でも言ってよ! おれがんばるよ」
「…………」
ボッシュはちょっと溜息を吐いて、それから照れ臭そうにリュウを抱き上げて言った。
「……じゃあオマエの身体。気持ち良くなりたい。してくれ。好きだから」
「それでいいの? でもいっつも気持ち良くなってるの、おれだよー……」
「……俺もちゃんと気持ち良いよ」
「ほんとに?」
「ほんとに……すごく」
ボッシュはそうしてリュウを下敷きにして、「気持ち良くなること」をするのだった。
いつでも手を繋いでいた。
ボッシュがリュウの手を離すなんて考えたこともなかった。
ずうっとこうやって、ふたりきりで世界の果てまで歩いて行くのだ、と思っていた。
そうしているうちは、世界はふたりだけのものであるように思えた。
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