今の所住処となっている森には良く雨が降った。
 水が降積って小さな川ができるくらい。
 ボッシュはどこが安全かということを良く知っていて、そっちは水没するから駄目だ、うん、ここなら安全なんて言って、雨が降り出せば地下シェルターに逃げ込んで、そうして何日も過ごした。
 どうしてボッシュはそんなになんでも知ってるのと聞けば、いつもは頭がいいからとしか答えてはくれないが、今日はちょっと考え込んで、前に一度来たことあるんだ、と言った。
「えー、おれ、おぼえてないよ……また忘れちゃってるかなあ?」
「……オマエはいなかったよ。俺一人でさ」
「おれは? なんで? ずうっとボッシュといっしょじゃなかったの?」
「ああ、悪い……一緒にいるよ、だからそんな泣きそうな顔なんてするな」
「んー……」
 ボッシュは、リュウが泣きそうになるといつも決まってすごく慌てて心配そうにしてくれる。
 あんまりリュウの泣き顔というものが好きではないみたいで(あんまりボッシュは泣かないけれど、彼がもし泣いてしまったらリュウもすごく心配だと思う)なのでリュウは我慢しようといつも頑張っているのだが、いかんせんその水は目から勝手に零れてくるので、どうにも対処のしようがない。
 ボッシュはリュウが泣き出すとオマエは泣き虫だよと、でもちょっと不安で焦ったみたいな自分も泣きそうな顔をして、もう泣くなよ、と言うのだ。
「……そろそろ雨の季節も終わるよ。そしたら、もっと遠くへ行こうな」
「ん……うみ? そらのはてっていうところ?」
「そうだよ。綺麗なものがいっぱいあるってさ……オマエが……」
「おれ?」
「あ、ああ。いや、きっと喜ぶよ」
「えへへ、うん!」
 ボッシュが頭を撫でてくれたので、リュウは機嫌が良くなって、にこおっと笑った。
 そうすると、ボッシュも少し笑ってくれた。
 リュウは嬉しくなってしまって、彼の袖を引いて、せっついた。
「ねえねえ! うみ、どんなかなあ? 水がしょっぱいってほんと? 魚もしょっぱい?」
「さあ……どうだろうね。なにせ1000年も前の本だからさ、ほんとか嘘かは知らない」
「そらのはてってどんなとこ? そのさき、どうなってるの? そこで終わり? じゃあ、触れるかなあ?」
「うーん、ほんとにどうなってんだろうね。俺もそればっかりは知らないよ」
「ボッシュも知らないの? ボッシュにも知らないこと、あるの?」
「オマエよりは大分物知りだけど」
「あ……もしかして、またバカって言った?」
「良くわかったね、えらいよリュウ」
「うー……ボッシュはいじわるだよ」
「ハイハイ、ゴメンナサイ」
 おかしそうにくすくす笑いながら、ボッシュはリュウの頭をがしがしと撫でてくれた。
 リュウはえへへえと笑って、ボッシュの袖をまた引いて、彼を見上げた。
「ねえ、ボッシュ? ね、今日はきもちいこと、まだ?」
「オマエ、あれそんな好き?」
「うん……すき……」
 リュウはちょっと顔を赤くして、俯いた。
 おかしいことは何もないはずなのに、変なこともしていないはずだ。
 でもリュウはこういう時決まってほっぺたが熱くなってしまって、胸がぎゅうっと締まってしまう。
「……うーん、なんではずかしいかなあ?」
「恥ずかしいことなんてなんにもないだろ。……かわいいよ、リュウ」
 ボッシュはリュウをぎゅうっとして、膝に座らせて、首をちょっと噛んだ。
「ひゃっ」
 リュウはくすくす笑って、胸に触るボッシュの手を取って、ほっぺたを摺り付けた。
 リュウはボッシュが好きだ。
 雨の日はこうやって地下に潜って、そしてその暗い闇の中では、ボッシュとリュウはいつも決まってこうやって触り合って過ごした。
「……おれ、雨の日、すきだよ……」
 ボッシュがずうっときもちいことしてくれるもんとリュウが言うと、ボッシュはちょっと赤くなって、ばあか、と言った。







 ボッシュは朝は、大体昼過ぎまで眠そうにしている。
 シェルターの中にいると、それはもっとひどかった。
 リュウと「きもちいこと」をしてるか、寝てるか、そのくらい。
 反対にリュウは朝になるとぱっちりと目が覚めて――――それは外でも真っ暗闇のシェルターの中でもなんにも変わらなかった――――ボッシュが起きてくるまで、暇と空腹を持て余すことになるのだった。
「ボッシュうー……」
 寝ているボッシュの上にごろんと寝転がって、あそんで、と髪を引っ張っても、ボッシュは気にしない。
 ほんとに朝が駄目で、弱いのだ。
 ちょっとうるさそうに、んん、と寝顔を顰めて、あと5分、なんて言う。
「……ごふんってなに? たべもの? ねえボッシュ、おなかすいたよー……」
「……うー」
 これは駄目だ。リュウは諦めて、雨の音がしなくなったシェルターの外に目をやった。
 最近少しばかりわかってきたのだ。
 ごうごう言う音がなくなれば、外は決まっていい天気で、虹が出ている。
「あ! いいこと思い付いたよ、ボッシュ!」
 リュウはぱあっと顔を輝かせて、ボッシュの髪をきゅっきゅっと引いた。
「……痛え……」
「あのね、そのまま寝ててね? おれがごはんの用意してあげるよ!」
 リュウはにこおっと笑って、いい考えだと何度もうんうんと頷いた。
「ボッシュの好きなの、いっぱい取ってきてあげるね。甘いの! 起きたらきっとびっくりだよ!」
「……リュ……あんまり、遠くには……」
「う、うん。だいじょうぶ、遠くにはいかない……怖いし……」
 怖いの来たらすぐ逃げてくるねだいじょうぶ、とボッシュに言って、リュウはくしゃくしゃになってしまっている自分のシャツを羽織って、ボタンを掛けた。上手くいかず、互い違いになってしまったが。
 眠っているボッシュの頭をいいこいいこと撫でて、リュウは初めて一人でシャッターを開けた。







 今日はまだ、外は少し暗かった。
 風もまだ強いが、雨は止んでいる。
 雨上がり、水浸しになっている森の中を、少しの陸地――――倒れた古木の上だ――――をとことこと歩きながら、リュウは辺りをきょろきょろと見回した。
 強風で落っこちてしまったらしい果実がいくつも水面に浮いていた。
 リュウは屈んで、水面を覗き込んだ。
 すうっ、と小さな魚が通り過ぎていった。
 わあ、と小さな歓声を上げて、そこにしゃがみ込み、目をこらすと、何匹かリュウの指ほどの小魚がぱっと散っていった。
「魚だ!」
 釣り竿を持ってくれば良かった、とリュウは少し後悔した。
 それは木の枝の先に糸と針をくっつけた粗末な代物だったが、ちゃんと魚は釣れたし、それで十分だった。
 でもいつものように釣りに夢中になってしまうと、その間にボッシュが起きてきちゃうな、とリュウは考えた。
 完璧に朝食を準備して、おはよう、と言いながら食事を差し出す。
 一度やってみたかったのだ、ボッシュは喜んでくれると思う。
 名残惜しかったが立ち上がって、リュウは生い茂る木々を見上げた。
 先の方に、強風にも耐えた青い果実がいくつか残っている。
 地面を覆っている苔には、小さな赤い実も見えた。この間ボッシュが食べさせてくれたものだ。
 甘酸っぱくて、美味しいもの。
「……よーし」
 邪魔っけになる袖をまくってリュウは木によじ登り始めた。
 ひょろひょろしてあまり背の高さもない木だ。
 周りに立っている大きな木に守られて、どうやら折れずに済んだらしい。
 このくらいの高さなら、どってことないはずだ。
「よいしょっと」
 ひょい、と張り出している枝に腰掛けて、手を伸ばした。
 枝の先っぽまではちょうどリュウの腕ほど、懸命に手を伸ばして、ようやっと手が届いた。
 青い実を掴んで、そして、ばきっ、と音がした。
 貧相な枝がリュウの体重に耐えきれずに折れたのだ。
 まっさかさまに落っこちた。
「ひゃあああ!!」
 ばしゃん、ごつ、という音が聞こえた。
 水溜りに落下したのだ。
 幸い水と底に溜まった枯れ葉がクッションになったようで、怪我らしい怪我もない。
 少し身体を打って、擦り傷をこさえてしまったくらいだ。
 リュウはへったりと浅い水溜りに座り込んで、びっくりしたせいで呆然としていたが、はっとして恐る恐る手を見た。
「あ、あー……」
 せっかくの青い実はくしゃくしゃに潰れてしまっていた。
 しょんぼりして、リュウはくしゃっと顔を歪めた。
 だが、だいじょうぶだいじょうぶ、他にもちゃんとある、と思い直して、立ち上がろうとして――――そして、びくっと震えた。
 なにか、声だか鳴き声だかみたいなものが、聞こえてきたのだ。
 それは近く、がさがさと茂みを掻き分けて、姿を現した。







「こっちだったけどねえ……」
「大方ちょっと間の抜けたサルかなんかが、落っこちたんだろうよ」
「まあ、用心に越したことはないよ。ディクだか猛獣かが出てこないとは限らないんだから……」








 リュウは震えてしまって、身動きできずにいた。
 現れたのはニ体ばかり、それもリュウやボッシュに良く似たかたちをしていて、片方には長い尻尾が生えていた。
 リュウの頭の中で、いつかボッシュが教えてくれたことがぐるぐると回った。








『俺たちに良く似てるよ。尻尾が生えてる奴も羽根があるやつも……』
『オマエなんか頭から食っちまうよ』
『遭ったらすぐ逃げるんだ。いいな』







(ヒ、ヒトだ……!!)
 リュウはパニックに陥ってしまって、半分腰が抜けたようになっていたが、どうにか立ち上がって逃げ出そうとした。
 ニ体のヒトはリュウを見付けて、なんでだか、とてもびっくりしたような顔をしていた。
――――リュウっ?!」
「おまえ、なんで――――
 その後は振り返らずに、リュウは逃げ出した。
「リュウ! 待ちなよ! なんで逃げるんだい?!」
 ヒトはすぐに追い掛けてきた。
 やっぱりリュウのことを食べる気なのだ。
 リュウは走った。
 シェルターに逃げ込めばきっとボッシュが助けてくれる。
 ふたつの片方、水色の空の色をしたほうのヒトは、リュウを追い掛ける足を止めて、腰から変なかたちをした鉄のカタマリを出して、リュウに向けた。
「オイオイ、リン! 何やってんだ! 可愛いお尻に怪我でもさせたらどうするよ!」
「黙ってな! 悪いね、ちょっと手荒になるけどそこ! 逃がさないよ!!」
 どん、とお腹に響く重たい音がして、焦げ臭いにおいがして、背中で何かがばしっと弾ける音がした。
 リュウは足が竦んでしまって、へったりとしゃがみ込んでしまった。
 怖かった。
「う、うー……」
 あんまりの恐怖に、涙が零れてきて、リュウは泣いてしまった。
 ヒトはこれから頭からリュウを食ってしまうだろう。
 ボッシュ、たすけて、とリュウは声にならない声で助けを求めた。
 きっと勝手にひとりで出てきたから、罰が当たったのだ。
「ほい、捕まえた、っと……あーあ、リン、泣いちゃってるぜ。よしよし、怖かったなああ」
「怪我はさせてないよ、加減したし、アブソリュードディフェンスもちゃんと……リュウ? 私だよ、リンだ。何で泣くの? わからないのかい?」
「どうした。またあの代行になんかされたか?」
「リュウ……? なんか、感じ、違うね。人違いって訳じゃ……」
「ない。うん、これは間違いなくリュウの尻だ」
「……う」
 ヒトは、さわっとリュウの尻を撫でた。
 リュウはびっくりして、びくっと震えた。
 するともう片方が、さっきすごい音を出した鉄のカタマリで、もう片方をがつっと殴った。
「……あんたの特技もこんな時ばかりは役に立つね」
「ならなんで殴るんだよ」
「黙りな。しかし、なんだいそのカッコ。女の子がそんなはしたない格好してちゃ……」
 頭の上で、理解出来ない言葉が飛び交っている。
 リュウは震えながら、ボッシュ、助けて、と彼を呼んだ。
 ニ体のヒトは少し沈黙し、やっぱり、と溜息を吐いた。
「やっぱりあいつと一緒なんだね」
「あーはいはい、泣くな泣くな。おまえさんももういい大人だろう。なんだ、どうした、子供みたいになっちまって……」
 そうしていると、ふっと空気が重く、冷たくなった。
 ああ、来たね、と尻尾が生えたほうのヒトが言った。
 もう片方はなんにも言わず、ただ肩をすくめてやれやれと頭を揺らした。
 やがて、やっとリュウに救いが訪れた。
 ぱきっと木の枝を踏み潰す音、リュウははっとして振り向いた。
 そこにはボッシュがいた。
 ちょっといつもと違う怖い顔をして立っていた。
 リュウはふらふらの足で立ち上がって、彼の元へ走って行って、ぎゅうっと抱き付いた。
 ボッシュは震えているリュウを背中に隠してくれて、なんにも心配ないよ、とそれだけいつもの顔で優しく言ってくれた。
「で、何しにきたわけ」
 目を閉じて、そっけなくボッシュが言った。
 ニ体のヒトはなんだか変なものを見たような顔をしていたが、やがてはあっと溜息を吐いた尻尾の生えたほうのヒトが口を開いた。
 そうして言った。
「連れ戻しに来た」














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