ヘたり込んでいるリュウが震えているうちに、すぐ目の前までディクが迫ってきた。
大きな口を開けてしわがれ声で吼えて、その時に、リュウは見てしまった――――大きな牙が磨がれたナイフみたいに光っている。
「う、うー……!」
目をぎゅっと瞑っているうちに、肩に痛みが、そしてふわっと身体が浮いたような感触があって、次には背中に内臓が潰れてしまいそうな強烈な衝撃がきた。
壁に投げつけられたのだ、と気がついた時にはもう押さえ付けられていた。
「や、やだやだ、やだあ! い、いや……!」
激しく暴れて、リュウは逃げ出そうとした。
ディクはうっとおしそうにリュウを掴んだまま、また壁に叩き付けた。
弱らせてから食べるつもりなのだ。
「い、いたい、いたい……やだあ……」
リュウはあんまりの怖さに泣き出してしまった……ディクは、ボッシュのように「泣くなよ」なんて言ってくれるはずもなく、ぎちぎち、とお腹に響く声で鳴いて、ぐあっと顎を開いた。
「いや、ボッシュ……ボッシュううー……!!」
がたがた震えながら、リュウは助けを呼んだ。
ボッシュは来てくれなかった。
こんな穴の中にいるものだから、うまくリュウを見つけられないのかもしれない。
「こっ、ここにいるよお! おれ、ここだよ! 見付けてよ、 助けて、ボッシュうう……!!」
叫んで、リュウはそんな場合じゃないのに、なんだか変な気分になった――――リュウは前にもおんなじことを叫んで、ボッシュに助けを求めやしなかったろうか?
ボッシュは助けてくれやしなかったろうか?
でもボッシュが来てくれないとなると、リュウはきっとそのままディクに食べられたに違いないのに、なんで今こうやって生きてるんだろう?
ボッシュは――――
『誰もかれも、オマエのことなんかどうでもいいってさ』
(……え?)
頭の中で、ボッシュの声が聞こえた。
しかし、それはリュウの知らないものだった。
ボッシュらしくない――――とても意地悪で、ひどくて――――まるでリュウのことなんか大嫌いだとでもいうような、悪意に満ちた声だ。
『誰かに必要とされたいなんておこがましいね。おまえ何人殺した? そのくせ聖人みたいな、悪いことなんてなんにも知らないし、そんなものは許さないみたいな顔してへらへら笑ってる』
『……俺の親父もさあ、殺されたんだよね、オリジン。あんたに』
(ボ、ボッシュ? なに? なに、言ってんの、ねえ……)
そのボッシュはとても冷たい目でリュウを見ていた。
まるでリュウのことが憎らしくて仕方ないというふうな、彼のそのグリーンの瞳には、いつもリュウに見せてくれる穏やかないとおしさなんてものは、欠片もなかった。
『……俺が殺してやるよ、オリジン様。死ぬよりもっとひどいことしてから、ゆっくりゆっくり嬲って、最悪の死に方をさせてやるよ』
(オリジンさまってなに、ねえ? なんでおれに言うの? こ、ころす、とか、ねえ、なんでおれに言うの?)
リュウが混乱しているうちに、ボッシュは決定的な悪意でもって、リュウを突き刺した。
彼は汚いものを見るような目でリュウを見た。
そこにはいつもの優しさなんてなかった。
『……1000年俺の姿を見て、苦しんであがけ。薄汚いローディーのくせに、俺を煩わせたことを懺悔しろ。リュウ、オマエ……』
『ウザイよ、マジで』
もしかしたら、知らないうちに何かとてつもなくひどいことをしてしまったのかもしれない。
ごめんなさい、とリュウは何度も謝った。
だがボッシュは許してくれなかった。
「い、いや……いや、やだ、やだあ、ボ、ボッシュ……! き、きらいになっちゃやだあ……!!」
彼はどうしてか、いつもと違う、ひどいことばっかり言うのだった。
そのどれもが、難しくて、あんまりよくわからなかったが――――すごくひどいことを、例えば大嫌いとか、殺してやるとか、どこかへ行ってしまえとか、そういうことを言っているのだ、ということは解った。
それはリアルだった。
頭に直に響き渡って、リュウをいじめた。
ボッシュがひどかった。
ふいに目の前に、あるひとつの情景が広がった。
辺りは暗い。夜。星が綺麗だ。
ボッシュは星がいっぱいに見える夜にはいつもリュウを膝に乗せて、こうして夜空をいっしょに眺めていた。
綺麗だねえなんて笑うと、ボッシュはすごくうれしそうにリュウと一緒に笑って、そうだな、オマエが喜んでくれるなら俺すごく嬉しいよ、なんて言うのだ。
ボッシュは優しかった。
このままずうっと空の果てまで、ずうっと、ずうっと一緒に行くのだ。
離れる未来なんてありはしないのだ。
ボッシュはリュウに優しくしてくれて、大事にしてくれて、目が合えば言ってくれた。
すきだよ、リュウ、大好きだ。愛してる。
ボッシュは、とてもリュウに優しい。
でも、目の前のボッシュは泣いているリュウを見ても――――リュウはなんでか知らないが、泣いていた。すごく辛いことがあったみたいに――――いつもみたいに弱りきった顔をして泣くなよなんて言ってくれなかった。
涙を拭ってくれなかったし、リュウが泣き止むまでぎゅうっと抱き締めていてくれることもなかった。
リュウは、てをつないで、とボッシュに手を差し出し、彼の手をぎゅっと握った。
すごく不安になった。怖くなった。
なんでボッシュはいつものように、リュウに優しくしてくれないんだろう?
だけどボッシュは、すごく汚いものでも振り払うみたいにリュウの手を払って、背中を向けてしまった。
『じゃあな、リュウ』
歩いて、行ってしまった。
リュウは呆然と立ち尽くしていた。
ボッシュの背中が、どんどん遠くなっていく。
そして、その『リュウ』は知った。
ボッシュはもうリュウの手を繋いで歩いてくれることもない。
生涯愛してくれることも、もうそばにいることもできないで、道は分かたれてしまったのだということを。
もう見てはもらえないのだということを。
意地悪すら言ってはもらえないのだということを。
それが、悲しかった。
顔を上げると大きく開いたディクの口がすぐ目の前にあった。
リュウはぼんやりとそれを見上げていた。
もういいや、という気分だった。
ボッシュが手を引いてくれなければ、どのみちなんにもできないリュウはすぐに死んでしまうのだ。
飢えて、ディクに食べられて、あるいは寂しくて、すぐにでも。
いつのまにか、またリュウは泣いていた。
ああダメだなあおれが泣いたらまたボッシュがすごく心配しちゃう、とリュウは思って、あれでもボッシュはおれのことキライになっちゃったんじゃなかったっけ、と変な気がした。
考えるのは上手くないのだ。
あまり頭が良くないので。
きっと痛いだろうと思った。
目を閉じた。
食べられるってどんな気分だろう、とリュウは考えてみた。
死んじゃうくらいの痛みってどんなだろう? おれは美味しいのかな? そんなこと。
どうせならボッシュに食べられたかったなと、そう思った。
だがいつまで経っても、その「死んじゃう痛さ」はやってこないのだった。
リュウはふっと目を開けた。
目の前にはディクの緑色の鱗じゃなくて、なんでだか、――――真っ黒の、つるつるした背中と、ぴかぴか光っている赤い変な模様があった。
「……へ? あれ?」
リュウはぱちぱちとまばたきをして、ゆっくり身体を動かしてみた。
ちゃんと動く。
ディクに押さえ付けられてもいないし、怪我もあんまりない。擦り傷と打ち身と、さっきの捻挫くらい。
死んじゃうものでは、ない。
そして、さっきのディクのかわりにいるのは、なんだか奇妙な生き物だった――――リュウやボッシュに良く似たかたちをして、ただ違うのは銀色の頭をしていて、くるっと振り向いたその目は真っ赤に光っている。
あと特別に奇妙なのは、それの頭には不揃いな角が二本生えていたということだ。
その生き物――――ヒト、だろうか?――――は、リュウを静かに見て、
「……怪我はないか」
そして驚いたことに喋った。
リュウはあっけに取られて、目を丸くしてしまった。
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