その街には、主がいなかった。
頂点に立つべきオリジン・メンバーの行方は依然として知れず、また何の手がかりもなかった。
急に、泡が弾けるように、ぱっと消えてしまったのだった。
時を同じくして、オリジン代行者の姿も消えてしまった。
空は閉じられるべきだと主張する組織の暗殺者にでも狙われたのではないか、という噂が流れた。
オリジンは原因不明の昏睡状態で、ひとりでどこかへ行けるはずもなく、とすれば同じく命を狙われる立場にあるオリジン代行者が彼を連れて、姿を隠しているのだ。
いやいや、ただ単純に駆け落ちでもしたのだ、もしくは実はオリジンはもう死んでしまって、人間に愛想を尽かした代行者は街を捨ててしまったのだ――――無責任な噂ならばいくらでも流れた。
だがその真相を知るものはなかった。
現オリジン代行者であるニーナでさえ事態が良く解っていないのだから、これは仕方のないことだ。
リュウもボッシュも良くこんな退屈な仕事を文句も言わずにやっていたものだと思う。
ニーナは溜息をついて、終わりの見えない書類の真中に御印を押した。
文面はこんなふうだ、北部プラント地区の街灯増設願い。
他にも他にも、仕事がなくなることはなく、一息つく暇もない。
初めは聞きなれない言葉の群れに戸惑ったものだったが、大体は難しい魔法陣なんかよりは大分ましで、数ヶ月してみればこうしてなんとか日々の責務をこなしていけるようになっている。
最近では日雇いの街の人間が手伝いにやってきてくれるようになったので、圧倒的に足りなかった人手は、なんとかスムーズと言って良いくらいに仕事が進むほどにはなった。
彼らは大きな椅子に腰掛けてぺたんぺたんと御印を押している小さなニーナを見て変な顔をしていたが、しょうがないのだとニーナも自覚していた。
こういうのはもうちょっと大人の、例えばリュウやボッシュのような人が普通やっているものなのだ。
「リュウ……」
ふと、溜息と一緒に彼の名前が零れた。
最近では日常だった。返事のない呼び掛け。リュウはいない。
(どこに行っちゃったの、ふたりとも……)
ボッシュがリュウを連れて行ってしまったのだと、ニーナは知っていた。
リュウは前みたいに死んだようになってしまっていて、ニーナが縋っても、ボッシュが呼んでも、目を覚ましてはくれなかった。
あれからボッシュはどうしたのだろうか。
呼んでも答えない、眠ったままのリュウを連れて、どこへ行ってしまったのだろうか。
リュウが答えてくれなくて、それはとても寂しいことじゃあないだろうか。
死人みたいになってしまったリュウに話し掛け、笑って、そんなふうなことをしているのだろうか。
それではあんまりにボッシュが可哀想だ。
(いつになったら帰ってくるの……)
彼らはきっとここへ帰ってくるはずだ。
ここは彼らの帰るべき場所だ。他にはどこにもない。
いつか帰ってくるだろう人達が戻るまで、ニーナは彼らの代わりに(それにしたって大分不器用な方法で)この彼らが愛すべき街を守っている。もう数ヶ月になる。
でも、リュウもボッシュも帰ってこない。
正直ニーナは死にそうなくらい、寂しかった。
リュウが心配だった。
怖い夢を見て夜中に起き出しても、枕を抱えてリュウのもとに押し掛けて一緒に寝てもいいなんて言えなかった。
彼がいればにっこり笑って、ぎゅっとして、背中を撫でながら、もうなんにも怖いことないよおれがいるからと言ってくれるのに、待っているのはただ静かな夜の闇ばかりだ。
リュウがいない世界は、それだけのことで色が褪せてくすんだ味気のない、優しくないものだった。
「……ニーナ?」
「あっ? あ、なに? クピト」
ぼおっとしていたから怒られるかもしれないと、ニーナは慌てて顔を上げたが、一緒に書類の整理をしていたクピトの顔は怒ってはいなかった。
彼は痛ましそうに心配そうに、ニーナを見ていた。
「大丈夫ですか? このところ、また少し痩せましたね」
「……へいき。ねえ、クピト」
「……?」
「ごはんって、いつもいっしょに食べる人がいないだけで、あんなにおいしくないものなのね……」
クピトが困った顔をしたので、ニーナはごめんねと言って、また書類に御印を押し付けた。
セントラルは静かだった。
リンとジェズイットは数日前からどこかへ出掛けていった。お仕事だという。
地下へ降りているのかもしれない。
周りは難しい顔をした大人ばっかりで、まだ子供のニーナには息苦しかった。
優しいリュウとちょっと怖いボッシュがいないだけで、この建物はこんなに怖いところになってしまうのだ、とニーナは思った。
昼間なのに何の音もしない。
リュウが書類の山を崩して埋まってしまって、クピトやボッシュに怒られている声もしない。
何の音もなかった。
暗い世界だった。
遠くの方から慌しい足音が聞こえてきた。
なにかしらとニーナが首を巡らせるのと同時に、執務室の扉が乱暴にノックされた。
「はい、どうぞ」
返事をすると、勢い良く扉が開いた。
入って来たのは、良く知った街の子だ。
先週からセントラルで、ニーナやクピトと言った非力なメンバーの代わりに、雑用のようなことをしてくれている。
名前はジョーという。
金髪の、ボッシュよりは大分ましだけれど、ちょっと意地悪そうな顔をした子だ。
「――――ニーナ姉ちゃ……じゃなくて、オリジン代行!」
「どうしたの? いいわよ、ニーナ姉ちゃんで」
「な、泣き虫リュウと怖い男の人が……じゃなくって、オリジンさまと、ニーナ姉ちゃんと同じ代行とか言う人が――――」
「リュウっ?」
ニーナは慌てて立ち上がった。
その拍子にテーブルの上に置かれた書類がばさばさと落ちたが、気にしてはいられない。
「ど、どこ? 帰ってきたの?!」
「今メディカルセンターにいるけど、なんか変だよ……違う子かも、リュウっぽくないし……」
「行くわ! あ、クピト……」
行ってきてもいい、と目を向けると、クピトはわかってますよというふうに頷いた。
「仕事が片付いたらぼくも行きます。先に行って下さい、ニーナ」
「ありがと、クピト!」
ほっとして微笑んで、ニーナは駆け出した。
やっとリュウが帰ってきたのだ。
◆◇◆◇◆
「お会いできません」
センターの最上階で、エレベーターを上がるなりこんな言葉が降ってきた。
勿論、納得できるはずもない。
ニーナはほとんど食って掛かるような調子で反論した。
「どうして?! なんでわたしがリュウに会っちゃダメなの?!」
「どうか聞き分けて下さい、ニーナ様……オリジンさまは原因不明の病で、もしかしたら未知のウィルスに感染しておられるかもしれません。あなた様にもしものことがあれば、オリジンさまも悲しまれます」
「リュウ! リュウも会っちゃダメって言ってた?!」
「いえ、オリジンさまは……なんというか……」
ドクターは何故か言葉を濁し、困惑した。
「ともかく、せめて明日までお待ち下さい。検査の結果が、早ければ明日の朝に出ますから……」
「今がいいの! すぐじゃなきゃやだ!」
どうしても譲ろうとしないドクターを押し退けて、ニーナはドアのロックを外し、中に入った。
部屋にはどうしてか、リンとジェズイットがいた。
そして、懐かしい顔があった。ボッシュ。
ベッドの上に探していた姿を見付けて、ニーナはぱあっと顔を明るくした。
「リュウっ!」
駆け寄って手を取って、顔を覗き込むと、可哀想にリュウはすごく苦しそうだった。
ひどい熱だ。
「……ニーナ、やっぱり入ってきちゃったか……。あんまり顔寄せるんじゃない、感染るよ」
「リン! もしかして、リュウ、迎えに行ってた……?」
「……まあ、そういうことになるかな……ねえ?」
リンがボッシュの方を見ると、ボッシュは面白くなさそうにぷいっと顔を背けた。
「ボッシュ……どこ行ってたの? リュウ、治ったの? 死んじゃってなかった……よかった……」
リュウの手にきゅうっと頬を摺り寄せて、ニーナは心底ほっとしてしまって、なんだか力が抜けて、座り込んでしまった。
「リュウ……」
呼び掛けると、ちょっとリュウの瞼が震えた。
うっすら目を開いて、ニーナを見た。
ニーナは少し、気後れしてしまった。
リュウのはずなのに、その目は幼くて、まるでニーナよりもずうっと年下の小さな子供のようだったのだ。
「……だ、れ……ヒト?」
舌ったらずの声で、リュウが言った。
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