リュウは、どうしてかニーナのことがわからないようだった。
「……リュウ……?」
ニーナはゆるゆる首を振って、もう一度リュウに呼び掛けた。
もしかしたら熱でうまくニーナを見付けられないのかもしれない。
わからないのかもしれない。
リュウがニーナのことを忘れるはずはなかった。
彼はニーナの為なら、空だって開けたのだ。
そう、忘れるはずがない。
「リュウ? わたし、ニーナ……わ、わかるよね……?」
熱に浮かされているリュウは、ちょっと不安そうにニーナを見て、熱っぽい舌ったらずの声で言った。
「……きみも、ヒト? おれの……こと、たべない?」
「な、なに言ってるの、リュウ?」
ニーナは驚いて、リュウの手をぎゅうっと握った。
「ど、どうしたの? わかんない? わ、忘れちゃった? リュウ?」
「ニーナ。今のリュウに何を言ってもわかりゃしないよ」
リンが困ったように眉尻を下げて、ニーナの肩をぽんと叩いた。
ニーナはぱっと振り向いて、リンにぎゅっと抱き付いた。不安が押し寄せてきた。
まさかリュウがニーナを見失ってしまうことなんか、あるはずない。
だけどリュウは始終不安そうな眼差しを、僅かな恐怖が混じったその幼い目をニーナに向けるのだ。
「リン……リュウ、どう、しちゃったの?」
「……私らのこともわからないんだ。なんにもわからない、まっさらな子供みたいになっちまってるんだ」
「ボ、ボッシュ?! ボッシュ、リュウになにかひどいこと、した……?」
「…………」
ボッシュは答えず、ただ壁に背を凭れ掛けたまま、黙ってリュウを見ていた。
代わりにリンが、違うよニーナ、と言った。
「その子がそこまで回復したのは代行のおかげさ。あんまりいじめてやるんじゃないよ」
「う、うー……」
ニーナはばつが悪く、俯いて、リュウの手をきゅっと握った。
火照って熱かった。
リュウはまだ苦しそうにしていたが、やがておずおずとニーナの手に頬を摺り寄せた。
「……リュウ……?」
そして不思議そうにしているニーナの顔を見上げ、ふにゃっと笑った。
そればっかりはいつもの通りだった。
リュウは気持ち良さそうに目を閉じて、安堵した声で言った。
「つめた……きもち、いい……」
「……リュウ」
ニーナはようやく少し安堵して、リュウの髪をさらっと撫でた。
リュウはニーナの冷たい手がとても気持ち良いみたいで、もっと触って、と言いたげに頭を摺り寄せてきた。
なんだかこんなリュウを見るのは、初めてだった。
ニーナの知っているリュウは、いつもぴんとまっすぐに立っている。
だけれど今目の前にいるリュウは、こうして子供みたいな仕草でニーナに甘えて、その様子は何というか、ちょっと……可愛いと思う。
くすっと笑みを零すと、誰かが近くで笑っている感触というものが心地良いのか、リュウも苦しげな表情を少し和らげ、微笑した。
くすくす笑いながらふと見上げると、ボッシュがすごい不機嫌な顔をしている。
リンとジェズイットは俯いている。笑いを堪えているようだ。
「どうしたの? ……あ、ボッシュ、ごめんね……ひどいこと言って」
「…………」
ボッシュは返事をせずに、ただぷいっと横を向いた。
彼は出て行ってからなんにも変わっていないみたいだ。
少し安心した。
◇◆◇◆◇
診断結果は、たちの悪い風邪だということだった。
ただドクター連中は始終歯切れが悪く、自信無さそうにしていた。
何かおかしなところがあったのと問うと、いや何でもと言葉を濁すだけだった。
リュウは確かに丈夫な性質をしていたので、次の日にはもう食事を採ることができたし、熱も大分下がっていた。
ただ相変わらず、彼はほんとに子供にようになっていて、始終とても不安げな顔をしていた。
どうやら人がたくさんいるのが、怖くて仕方がないらしい。
「リュウー?」
メディカルセンター最上階、リュウはずうっとその部屋に閉じ込められっぱなしだ。
病人はおとなしくしていなければならないというのがまず大きな理由だったが、今のリュウが外に出たらひどいパニックを起こすだろうということは目に見えていたので、こんなことになっている。
当人も不安げで、外出したがる様子もなかった。
だがずうっとこんな部屋に閉じ篭りっぱなしでは退屈だろうということで、二ーナは足げく彼の元へ通っている。
ニーナの顔を見ると、リュウはちょっと気後れしたように笑って、こんにちは、と言った。
「えっと、にぃ……に?」
「にい、な。ニーナよ、リュウ」
「うー、にー、な……」
「そう」
にこっと笑って、ニーナはリュウの頭を撫でてあげた。
「おなまえ、おぼえたね。えらいね、リュウ」
「えへへ……」
誉めてあげると、リュウはちょっと照れ臭そうな、嬉しそうな顔をして笑った。
すごく可愛いなあと、素直にニーナは思った。
リュウがニーナを忘れてしまうことは悲しいけれど、彼は確かにここにいて、二ーナに微笑んでいる。
今はこれで十分だ。
それに、このリュウもとても可愛いし。
「今日はクリームパイを持ってきたの、リュウ。いっしょに食べよ?」
「わあ! 甘いの?」
「そう、甘いの。リュウ、すき?」
「すき……」
にこおっと無邪気に笑うリュウの顔はとても可愛らしくて、ニーナは微笑みながら、彼の頭をぎゅうっと抱いた。
「ニーナ、くるしい……」
「あ、ご、ごめんね、リュウ!」
息ができないとリュウが訴えて、ニーナは慌てて彼を解放した。
小さなテーブルの上でパイを切り分けていると、リュウはおずおずとニーナを見上げた。
「ね……ボッシュは?」
「ん?」
「ボッシュ、甘いの、すきだよ……。いっしょに食べると、きっとうれしいよ」
「そうね……」
ニーナはちょっと困ったふうに笑って、リュウをぎゅっとした。
「リュウは、やさしいね……ボッシュ、すき? いじわるされなかった?」
「うん、すき……。いじわるは……やさしいけど、たまにされる……」
「そっか」
頬を摺り寄せて、ニーナはにこっと笑って、ちょっと待ってて、と言った。
「ボッシュも仲間に入れてあげよう。きっとお仕事で、すごくおなかへってるもんね」
「うん……」
リュウはふわっと嬉しそうに微笑んで、あっという顔をした。
「おれ、おあずけだね……」
「そう、まだ食べちゃだめよ、リュウ。すぐだから」
すぐに呼んでくるからとリュウに言って、ニーナはドアを開けて、ちらっと一度リュウを見た。
リュウはすごく真剣な顔をしてパイと睨めっこをしている。
それがおかしくて、ついくすっと笑みを零してしまいながら、部屋を後にした。
ニーナがいない間は、ボッシュは執務室にいるはずだ。
◇◆◇◆◇
執務室にはすごく不機嫌な顔をしたボッシュがいた。
彼は何もかもが面白くないようだった――――また溜まりに溜まった書類と格闘することや、リュウが熱を出してしまっていること、それに自分以外の人間がリュウに構うこと、リュウもそれに応えてにっこり笑うこと。
この人はリュウを一人占めしたがりの子供なのだと思う。
ボッシュはリュウをニーナよりもずうっと昔から知っていた。
ニーナをリュウがちょっと上の視線から見るように(それにしたってリュウは優しかったので、いつも屈んでちゃんと目線を合わせてくれるのだ)ボッシュはリュウを見ていた。
見下ろしていた。
頭を撫でてやることもできる人だった。
だが彼はそうせず、いつもリュウを苛めてばかりいた。
本質的に意地悪な人なのだと思う。
でも、これだけは間違いない。
ボッシュはひどいことばかりしているが、リュウのことが大好きだ。
「お仕事、終わった?」
声を掛けると、ボッシュはめんどくさそうに顔を上げた。
「……なに」
「街で美味しいってパイを買ってきたの。リュウ、ボッシュが一緒じゃないと寂しそうだから」
「……行く」
不機嫌に、でもすぐに頷いたボッシュにくすっと笑って、ニーナは後ろ手にドアを閉めた。
「お仕事、どこまで進んだ? ……わあ、もう終わっちゃった。ボッシュ、はやーい」
「当然だ。無能な他のオリジンどもとは出来が違うんだよ」
「あっ、またひどいこと言った。リュウに言い付けてやるんだから」
「…………」
黙り込んでしまったボッシュを見て、ニーナはくすくす笑った。
リュウのことになると、本当に子供みたいになってしまう人だ。
「……笑うなよ。何がおかしいわけ?」
「ボ、ボッシュ、子供みたい。リュウ、好き?」
「……どうでもいいだろ、そんなこと」
ボッシュはリュウが嫌いだとも、どうでもいいとも言わなかった。
以前より、少し優しくなっていた。
ニーナはなんだかくすぐったいような気がして、それと同時に少し寂しかった。
「わたし、リュウ、すき……」
あのままもしかすると二人で、どこまでもどこまでもニーナを置いて行ってしまったんじゃないかなんて空想が浮かぶ。
ボッシュはリュウが好きだ。
リュウもきっとボッシュが好きだ。
でもニーナはリュウが好きだ。
これってどうなんだろう?
「……ボッシュ、いっしょにつれてってほしかったよ」
「急に、なに」
「わたしも、いっしょに。わたし、リュウがそばにいれば、なんでもいいの」
すごく大事な人がどこかへ行ってしまうって、とても寂しいことだ。
ニーナはボッシュに懇願した。
少し涙さえ零れたかもしれない。
「リュウ、つれてかないで……」
「…………」
「ふ、ふたりとももう、ずっとここにいるよね? もうどっか行っちゃわないよね?」
ボッシュは応えず、立ち上がって、無言でドアを開けた。
ニーナは慌てて彼の背中にくっついて、ねえ、どこにも行かないよね、と念押しした。
ボッシュはどうでも良さそうに振り向いた。
「……リュウが待ってるんだろ」
「あ、うん……」
「泣くなよ、クソガキ。リュウの前でその顔じゃ、俺が泣かせたと思われるだろ。なんでオマエもリュウも泣いてばっかりなんだか」
「……うー」
ニーナは袖でごしごし顔を拭って、顎を上げて、これでいい、とボッシュに訊いた。
「知ったことか」
「うー……やっぱりボッシュはいじわるよ……」
「さっさと来い。置いていくぞ」
「う、うー」
小さなニーナのことを全く気に掛けずに歩いていくボッシュを懸命に追い掛けて、ニーナはもう一度確認した。
「ねえ、もう置いてかない?」
「うるさいな。リュウに聞けよ」
「うー、うん……」
ニーナは頷いた。
少しほっとした。
少なくとも、間違ってもリュウはニーナを置いていこうなんて、言い出すことはないからだ。
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