そのプラントは四階建てで、最上階だけは他の階層と様子が違っていた。
真っ白の壁でできた迷路みたいになっていた他階とは異なり、鈍い鉄色のパイプが天井を、壁を、床を巡っていた。
そっと触れてみると、鉄肌はびっくりするほど冷たい。
いくつかのパイプが半ばで折れ曲がり、白っぽく濁った水を噴出していた。
水も冷たい。
廊下は水浸しになっていて、リュウとニーナは天井から流れ落ちてくる水でびしょ濡れになってしまった。
「つ、つめたいね……! リュウ、へいき?」
「うん、慣れてるから、ぜんぜんへいき」
「気をつけてね。風邪が治ったばっかりなんだから、あんまり水に当たらないように、ほらこっち」
ニーナにきゅうっと手を引かれて、リュウは地面を伝っている太いパイプを乗り越えた。
さっきからとても静かだ。ディクの姿は見えない。
ふとニーナの手が震えていることに気がついて、リュウはちょっと屈んで(こうしないと、ちょっとリュウよりも小さいニーナの顔が見えないのだ)ニーナの顔を覗き込んで、大丈夫、と訊いた。
「寒い? 怖い?」
「あ、だいじょうぶ……ううん、リュウはやっぱりすごいね……わたし、こういうのはちょっと怖くてだめみたい……」
「おれ?」
「うん、誰かの手を引っ張って歩いて行くのって……あんまり、慣れてないから」
「ふうん……」
リュウは首を傾げて、曖昧に、良くは分からなかったが頷いた。
ニーナはちゃんとリュウの手を引いてくれているのに、彼女はあんまり自信がないらしい。
「だいじょうぶだよ、ニーナ。手、つないでいけば、こわくないよ。おれ、よわっちくてごめんね……あ、強いんだっけ? よくわかんないけど」
「……うん」
リュウはニーナを安心させようと、にっこり笑った。
最初の緊張は大分薄らいでいた。
ディクの姿があまり見えないせいでもあり、手を繋ぐひとがいるせいでもあった。
「ボッシュが言ってた。手、つないでれば、なんにもこわいものなんかないって……」
「ボッシュ? ボッシュ、そんなこと言ってたの?」
「うん。おれを守ってくれるって。ひとりにしないって。ボッシュ、すごく強いんだもん」
「……ふーん」
ニーナは意外そうな顔をしたが、やがてくすくす笑い出した。
おかしくてたまらないという感じだ。
リュウは何か変なことを言ったのかなと不安になったが、ニーナは首を振って違うのと言った。
「ボッシュ、わたしにはそんなにやさしくないよ。ほんとに、リュウだけいつも特別扱いしてる」
トクベツなんだと彼女は言った。
リュウは良く分からなくて首を傾げたまま、そうなんだあと頷いた。
そうしているうちに大きな扉の前まで来た。
「ここね」
ニーナが扉の横のスイッチを押したのと同時に、扉が開いた。
中を覗き込んで、リュウとニーナは二人して言葉を失った。
羽根の端から端までがリュウが手をいっぱいに広げたくらいの、真っ黒で蝙蝠みたいなディクが飛び交っていた。
そして、天井から逆さまにぶら下がっている緑色のディクには見覚えがあった。
リュウは身体を強張らせた。
この前森で穴に落ちてしまった時に、リュウを食ってしまおうとしたものと同じだ。
でも今はまだ眠っているみたいだ。
リュウが真上を見上げているうちに、ニーナがバルで大きなコウモリもどきを追い払った。
「リュウ! わたしの後ろに隠れてて!」
「う、うー……」
リュウはいっぱいのディクに怯えながら、おずおずと頷いた。
見ると部屋の奥にはもうひとつ扉があって、さっきの細長い、人間みたいな身体をした変なディクが、自由に伸びる手でドアをひっぱたいていた。
どうやら、壊して中に入ろうとしているらしい。
今の所はそっちのほうは扉に夢中で、リュウたちにまだ気付いていないらしい。
ニーナの魔法が、血を吸おうとたかってくるコウモリを撃ち落した。
彼女は上を見上げて、まずいなあと言った。
「どしたの?」
「一匹だけ残すと、すごい厄介なの……。でもそう言ってられないし、困ったなあ」
「うー……」
リュウも何かできることがあればと辺りを見回したが、いかんせん弱っちいリュウを馬鹿にするように頭にごつんごつんとディクがぶつかってくるので、血を吸われないようにばたばたと手で振り払うだけで精一杯だ。
「ひゃあっ……あっちいけー、このー!」
リュウは襲ってくるディクに向かって、転がっていたパイプを拾って振り回した。
あてずっぽうで振り下ろした棒きれは、ばしっ、と上手い具合にディクの顔面を打ち、コウモリもどきはきいきい鳴きながらリュウから離れて、天井をはしるパイプに逆さまにくっついた。
追い払うことには、どうやら成功したようだ。
ふと見ると、ニーナが床に、不思議な光を放つ丸い絵を浮かび上がらせていた。
ディクが真上に飛んでくると、いきなり氷柱を出現させ、氷の中に閉じ込めてしまった。
横手でがんがん、という音の後に、ぐしゃっと壁が壊れる音が聞こえた。
見るとさっきのひょろひょろしたディクが扉を壊して中へ入っていくところだった。
わあっ、という男の人の声が聞こえた。
それは悲鳴だったかもしれない。
中に人がいたようだ。
「いけない……!」
ニーナが叫んで、駆けて行った。
それと同時に、天井からぶら下がっていた緑色のディクが羽を広げて、前リュウの目の前でそうしたように、すごいスピードで降りてきた。
それはニーナを狙わず、氷づけになっている、それと比べると少しばかり小振りなディクに噛みつき、その大きな歯でぐしゃぐしゃに氷ごと噛み砕いて飲み込んでしまった。
そして鋭く一声哭き、その巨大な身体でもってパイプラインに降り立ち、大きく口を開けて、腕みたいなかたちをした脚でリュウへとにじり寄ってきた。
「う、わわわ……」
リュウは逃げようとした。
だが恐ろしくて足が竦んでしまって、その場にぺったりとしゃがみ込んでしまった。
腰が抜けてしまったのだ。
「や、や、やだあ! こ、こっちこないで……!!」
リュウが泣き声混じりの悲鳴を上げると、二ーナが血相を変えて駆け寄ってきてくれた。
「リュウっ!!」
彼女は強い魔法使いで、そうして杖を掲げ、魔法の光を灯した。
リュウは守られるはずだ。
誰かに庇護されることはリュウにはもう当たり前になっていた。
だから、彼女が負けるはずはないと信じていた。
ディクが少し下がり、飛び出した。
滑空するようなかたちで、また哭き声を上げ、それは何かしらのディクなりの詠唱だったかもしれない。
ニーナが悲鳴を上げて弾き飛ばされたのを、リュウは見た。
小さな彼女がディクの大きな手に、この間のリュウのように掴まれたのを見た。
ニーナはぐったりしていて、その目は閉じられていた。
気を失っているのかもしれない。
扉の奥からまた悲鳴が聞こえてきた。
今度は声はさっきよりも多く、どおんという何かが爆発する音もいっしょだ。
リュウのすぐそばにいるディクが口を開けた。
リュウの手のひらほどある牙が、天井の照明を映して輝いた。
「――――やっ、やめてえ!」
リュウは腰が抜けたまま、ずるずる這うようにしてディクのそばまで移動し、手を上げて、滞空している尻尾を掴んだ。
「殺さないで! ニーナ、たべちゃだめ……」
リュウは懇願したが、ディクは以前そうあったように聞き入れてなんてくれなかった。
荒々しく振り払われ、パイプに体を打ち付けて、痛くて声も出ない。
(……なんでだろう……)
震えながら身体を起こし、リュウが考えるのはそんなことだった。
しつこくディクに突っかかっていった。
今度はさっき拾ったパイプで殴り掛かったのだ。
でも、パイプが届く前に尻尾で打ち払われた。
リュウは弱かった。
(なんでおれ、こんなに弱いんだろう……)
リュウは庇護される存在だった。
ボッシュに守られていた。
ニーナに守られていた。
彼らのように強くなれなかった。
どんなに頑張っても、リュウは非力だった。
ボッシュに何もしてあげられなかった。
ニーナも救えなかった。
リュウがいなくたって、きっと彼らは何にも不自由することがないものだった。
目の前が真っ赤になった。
額を切った血が流れて、目に入ったのだろうか。
ニーナは気がついたようで、ディクに抱えられていやいやをするみたいにじたばた手足を振り回していた。
リュウはふるふると首を振った。
何とかしないと、ニーナが食べられてしまう。
それだけは……彼女、だけは――――
「……え?」
彼女だけは守らなければならない。
庇護されるべき存在だ。そのためならリュウは、
「だれ?」
いつのまにか、目の前には奇妙なことに、自分の背中があった。
赤い星型のマークが入った長いコートだ。
今リュウが着せられているものだ。
『――――呼べよ、相棒』
自分の声が、急におかしな感触を伴って頭の中に響いてきた。
それはいつも聞こえるものとは違い、とてもクリアだった。
まるで実体を伴って、もうひとりリュウがそばに、隣にいるような。
顔を上げると、見知っているひとがリュウを覗き込んできていた。
黒っぽくて、つるつるした変な服を着た男の人だ。
「えるー?」
リュウは慌てて、彼に縋ろうとした。
だが手を伸ばしても、うまく届かない。どうしてだろうか?
「え、えるー! ニーナ、たべられちゃう……たすけて……!」
「……手を、取るがいい。それがおまえにあたえられた力……ドラゴンの力だ」
えるーがリュウの手を取ってくれることはなく、彼はよくわからないことを言った。
「自らの足で歩いて行くがいい……おまえはそれを、望むだろう。千年の空の世界を見守る判定者として……」
リュウは、呆然と目の前の背中を見つめた。
『……呼びなよ、相棒。帰ってきなよ……』
リュウの目の前にいるもうひとりのリュウが振り向いた。
リュウは息を飲んだ。
その目は赤く炎のように輝いていた。
『そうすりゃ俺はオマエの望みならなんだって叶えてやるよリュウ』
そのひとは、自分は、なんだかボッシュのような口の訊き方をするのだった。
リュウが返事をしないうちに、手のひらがぼうっと赤く輝き、炎の色に染まった。
何故か、リュウは驚かなかった。
まるで当たり前のことのような懐かしさがあるのだった。
もう目の前の背中は消えていて、えるーもいなくなっていた。
ただ、最後に頭の中に直に声が響いた。
『俺はオマエを選んだんだよ』
ひどく懐かしい声だった。
赤い光は一振りの剣に変わった。
リュウは目を閉じた。
どうすればいいのか、リュウは知っていた。
ずうっと前から知っていたのだ。
逆手の剣を、燃え盛る炎そのものの輝きで喉を裂き、突き刺した。
炎に投げ込まれるような感触、身体が変わり、そして――――
Back * Contenttop * Next
|