メディカルセンター一階の待合室には何人もの急患が運び込まれ、一時騒然となっていた。
センターの薬品プラントが野良ディクに襲われたらしい。
そこには怪我人の山が出来上がっていた。
だが幸い死傷者はなく、すでにディクの掃討は完了していた。
事件を聞き付けて、リンは真っ先にセンターへ向かった。
リュウを連れて件のプラントへ向かっていたニーナに怪我でもあったら大変だ。
ニーナはその赤い羽根が目印になって、すぐに見つかった。
センターの待合室で、他の医師に混じって薬の山を抱えてちょこちょこしている。
そう言えば彼女はセンター担当の判定者だったが、事件の当事者がこんなところでナースの真似事をしているのはおかしな具合である。
だがリンは、それでほっとしてしまった。
「ニーナ!」
声を掛けるとニーナはすぐに気がついて、手を振ってよこした。
「あっ、リン!」
「大丈夫なのかい? 怪我は? 痛い所とかないかい? 無事?」
「うん、なんともないよ」
ニーナはにこっと笑って、へいきよと言った。
「ちょっとすりきず……もう手当てもしてもらったよ。ぜんぜんへいき。リュウが守ってくれた」
「……え?」
そう言えばリュウの姿が見えない。
怪我でもして、治療を受けているのだろうか?
ニーナはリンの疑問にすぐに気付いて、大丈夫だと言った。
「リュウもぜんぜん怪我してないよ。今、ボッシュのところ」
ニーナはちょっと笑って、言った。
「ふたりでおはなし、したいんだって」
◇◆◇◆◇
何やら外が騒がしい。
空調が効いた高層の窓はぴっちりと閉じられていたが、そこから覗く遥か下の地面には、ワーカーアントの群れみたいな人の束が見えた。
担架に乗っけられて運ばれてくる人間が多い。
どこかで事故でもあったのだろうか?
リュウはどうしたろう。巻き込まれてやしないだろうか。
熱に浮かされた頭で纏まらない思考がぐるぐると巡る。
(くそ……)
このボッシュが、とボッシュは忌々しい気分で吐き捨てた。
風邪で、熱ごときでへばっているのが情けない。
面会時間はとうに過ぎてしまって、リュウは他のメンバーと一緒に放り出されてしまった。
今頃ジェズイットの痴漢に遭ってやしないか。
誰かに手を出されてやしないか。
ニーナにリンに笑い掛けているのだろうか。
あのリュウがボッシュのいない街でどうしているだろうか、正直なところ心配だった。
(頭、痛え……)
自分の声すら頭に響く。
ベッドが軋む音すら不快であるので、下手に動けやしない。
栄養剤の点滴を見上げながらひとつ溜息を吐いて、ボッシュは目を閉じた。
もう寝てしまおう。
まどろみはすぐに訪れた。
ぴりっと背中に痛みを感じて、ボッシュは眉を顰めた。
軽いエア音。入口が開いた。
重く暑苦しい、浅い眠りから、ボッシュはうっすらと覚醒した。
誰か入ってきた――――センターの看護婦が検温にでも来たのだろうか。
ゆっくりとした足取りで、近付いてくる。
落ち付いた様子だ。ドクターだろうか。なんだっていいが。
「……?」
ふっと影が差した。
誰かが覗き込んできているのだ。
そう理解したと同時に、僅かに頭を擡げさせられる感覚、そして唇に冷たい感触があった。
柔らかく、だが少し苦い――――薬品特有の独特の香りが鼻腔に抜けた。
(誰だ……)
ボッシュはうっすら目を開けた。
そこには見慣れた青があって、ボッシュは安堵して、再び目を閉じた。
リュウがそばにいる。
唇から流れ込んでくる苦い液体が口腔を満たした。
ボッシュは顔を顰めて、それを飲み下した。
薬だろう。
しばらくすると、火照った身体はそのままだったが、ボッシュを悩ませていた頭痛は大分ましになった。
あの息苦しさは消えてしまった。
リュウの冷たい手のひらが頬に触れて、背中を撫でてくれていた。
それがあまりにも気持ち良く、このまま眠ってしまおうかとボッシュは考えたが、少し考えて薄く目を開けた。
「……リュ?」
呼び掛けると、リュウはボッシュのゆらいだ視線の中でうっすらと微笑んだ。
「もう少し眠ってなよ……次に目が覚めたら、大分ましになってると思うよ」
ボッシュは頷いた。
しかしリュウの話し方はこんなに流暢で落ち付いていたろうか?
これでは過去そうであった彼のようだ。
少しの違和感があったが、ボッシュは言われるまま目を閉じた。
「リュウ……そばに、いろよ……」
ボッシュはふらふらと手を伸ばして、リュウを捕まえようとした。
彼は頼りないので、しっかりと掴んでおかないと、すぐにふらふらとどこかへ行ってしまうのだ。
「どこへも行くな……俺を、ひとりにするんじゃ、ない……いい、な?」
柔らかくて冷たい、ほっそりした手のひらがボッシュの手と重なった。
「うん、おれ、ここにいるよ……だいじょうぶ、ボッシュ」
リュウの穏やかな声が降り落ちてきた。
それはとても心地の良いものだ。
「手を繋いでる。心配しないで、ゆっくりおやすみ。ずっと、いるから……」
そうやってリュウは背中を撫でてくれていた。
ボッシュは安堵して、うっすら微笑んで、リュウの繋いだ手のひらに額をすり付けた。
懐かしい安堵が、そこにはあった。
ずうっと昔、もうほとんど覚えていない幼いころにそうあったような、そして自分はそれをとても愛していたような、そして無条件に愛されていたような――――繋ぐ手を与えられ、こうして背中を撫でられていたような、
(ああ……)
もう十何年も忘れていたそんな感触を思い出して、ボッシュは理解した。
もう顔も覚えていない。
ぼろぼろに摺り切れた記憶の中にあるのは、背中を撫でる優しい手のひらだけだ。
「……かあ、さま……」
僅かに微笑んだ感覚が、柔らかい空気を通して伝わってきた。
触れ合った手にきゅっと力が篭った。
ボッシュよりもいくらか小さい、冷たいリュウの手だ。
「リュウ……て、つないで……」
ボッシュはいつしか、眠り込んでしまった。
なんにも夢は見なかった。
◇◆◇◆◇
「……う……」
身体が泥のように重い。
僅かに覚醒すると、まず手のひらの温かい感触に気がついた。
「リュウ……?」
どうやらずっと手を繋いでいてくれたらしい。
リュウはボッシュが目を覚ましたことに気がつくと、心配そうに覗き込んできた。
「おはよう、ボッシュ。具合はどう? まだ苦しい?」
「…………」
ボッシュは呆然とした。
リュウはいつから、こんなにはっきりとした口調で話せるようになったのだろうか?
いつもの少し甘えるような、舌ったらずの声に慣れたボッシュには、それが少し違和感を感じさせた。
これでは前の「リュウ」のようだ。
「熱は……うん、もうだいじょうぶみたい」
リュウはぼおっとしているボッシュの額にぺたっと手のひらをくっつけて、自分の額と比べて、熱下がったね、と言った。
「……リュウ?」
大人びた仕草にボッシュが戸惑っていると、リュウはちょっと困ったように微笑んで言った。
「……きみはいつもそうだったよね。ぎりぎりのところまで平気だって、弱いところなんか誰にも見せないで、急に倒れちゃうんだから……」
「リュウ……おまえ」
まさか、という想いが胸に訪れた。
まさか、リュウは帰ってきたのだろうか?
壊れてしまった心は、その身体へふたたび還ってきたのだろうか?
「おまえ、まさか……」
リュウは僅かに俯いて、遠い、遥かに遠い地底を見るように、その視線を下へと向けた。
「初めて氷結廃道に行った時だよ、覚えてる? ボッシュすごい熱なのに、なんでもない顔をして……結局途中で急に倒れちゃって。ブィークに追っ掛けられて、あの時おれ、きみを背負って慌てて逃げて帰ってきた」
「…………」
信じられない心地だった。
もう二度と見られないと思っていた。
二度と彼にはもう遭えないと思っていたのだ。
リュウは少しはにかんだように笑って顔を上げ、まっすぐにボッシュを見た。
「今だから言えるけどさ、嬉しかった――――おれ、ちゃんと相棒らしいことできたの、ボッシュの役に立てたのは、あれが初めてだったから」
「……リュ、ウ?」
ボッシュは、おずおずと腕を伸ばし、リュウを抱き締めた。
腕の中の小さな身体は温かく、だがボッシュよりも少し冷たくあって、懐かしい感触だった。
これは夢だろうか?
ボッシュが熱に浮かされて見た、幻覚だろうか。
リュウはきゅうっとボッシュの胸に縋りついて、震えていた。
「――――ボッシュ、忘れさせないで……。おれ、いやだよ。忘れたくない……。ずうっと、いっしょにいたろ? おれのこと憎んで、殺し合って、おれ、何度もいくつもきみにひどいことばっかりして、でも、忘れたくないよ。なにひとつ、忘れない……」
リュウの薄い肩は頼りなく揺れていた。
夢だろうか。
だが夢だってなんだって良い。
リュウが目の前にいる。
ボッシュはきつく強く、リュウを抱いた。
「リュウ……」
「全部大事な記憶なんだ……」
「リュウ……リュウ、リュウ、りゅ……!」
リュウに縋るように彼を抱き締めた。
じわっと涙が浮いてきた。
リュウは泣かないでと自分の方が泣きそうな顔をしながら、ボッシュの頭を緩く撫でて、静かに告げた。
「すきだよ、ボッシュ。大好きだ」
「オマエ……だよ、な? もう、いなくなりゃしないよな……死んじまったりしないよな?」
「うん。――――ね、……好きって、言って……?」
そこばっかりは甘えるように、空の果てまで連れてってやろうとボッシュが決めたあのリュウのように、上目遣いで可愛らしく、リュウが懇願した。
ボッシュはその様子に頬を染めながら、リュウの望む言葉をくれてやった。
「……好きだよ、リュウ。もう、どこへも行くんじゃ、ない……」
「……うん」
リュウは嬉しそうに微笑んで、目を閉じた。
そして唇を触れ合わせた。
彼は誘うように僅かに口を開け、舌を絡め合わせると、安堵したようにボッシュの胸に縋り付いた。
「……ごめんね、おれ馬鹿だし役立たずで、ひどいこともしたし、これからもすごい迷惑掛けると思うけど……」
脱力したリュウの身体をベッドに引き込んで、そして思い切り、息が止まりそうになるくらいに抱きしめた。
リュウは苦しいよとも言わないまま、静かにボッシュの背中を抱き返してくれた。
そこには赦しの気配があった。
それはとても幸福なことだった。
リュウが全て受け入れてくれたような気がしたのだ。
「でも、手、繋いで……ずうっといっしょにいようね、ボッシュ……」
「ああ」
いとおしさが、訪れた。
リュウのコートをはだけ、アンダーを脱がせて、この「リュウ」へ一度も叶わなかったふうに優しく触れた。
壊さないように、本当に愛しいものに触るようにして、リュウはそうやって身体を辿られると幸せそうに目を細めて、ボッシュの手を取り、柔らかく舐めた。
「……憎んでなんて、もう言わないね。ごめんね」
「ああ……」
半分泣きながらこうして抱き合うことなんて初めてで、それは情けなく、らしくはないことなのだろうが、リュウはただ穏やかに優しく微笑んでくれた。
あの変な困ったような微笑でもなく、卑屈さも恐怖もなく、そこにはただ純粋ないとおしさがあった。
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