52:「恋合い」




 アレン=ウォーカーに関しての情報は限られていた。例えば教団内部の研究棟にいること、何がしかの研究のサポートを行っていること、稀に執務室に姿を現すらしいこと。
 コムイが室長の座についてからは大分ましになったらしいが、ろくでもない研究は今でも日々行われている。人体実験なんていつものことだ。昔はエクソシストのリナリーでさえ対象になっていたのだから、実験台はまったく無差別に選ばれている。
 アレンがいるのは塔上層の一角だった。使われなくなって久しい研究エリアだ。廊下のあちこちに錆び付いた歯車や得体の知れないがらくたが転がっており、天井にはカビまで生えている。
 こんな場所にいるだけで気分が塞いでしまうだろうが、アレンはどうやらこの辺りで生活しているらしい。彼女は人前に姿を現さなかった。それは徹底していた。アレン自身の意思もあったろうし、上層部の思惑もあったろう。
 「開けないで」と彼女は言った。「この姿を貴方だけには見られたくない」――大分くぐもった声だったがそう聞こえた。あれはどういう意味だろうと神田は考えた。彼女の身体はどうなっているのか、それに神田にだけは見られたくないってのはどういう意味なのか。
 もしかしてあいつは俺のことが好きなのかなと神田は考えた。それはすごくありえないことのように思えた。大体顔を合わせると最悪なのだ。仲が悪いってのはこういうことなんだろうという見本みたいになってしまう。
 でも確かにアレンは綺麗な顔をしていたし、それらしい格好をするとちゃんと女らしいところもあった。昔は素直で可愛かった。今もまあ、憎たらしいが、ちょっとは可愛げってものがあると言ってやっても良い。
(俺は何を考えてるんだ)
 神田は自問し、頭を抱えて扉に凭れかかり、座り込んだ。
 部屋の中にはアレンの気配があった。呼び掛ければ応えるだろう。でもその返事は日に日に弱々しくなっていく。不死者のくせにまるで死に掛けた人間のような声が返ってくるのだ。
(というか、なんで俺はあんなのに遭いにきてやってるんだ)
 この区画は一応封鎖されているのだ。見張りまで立っている。ローズクロスの名においてあらゆる場所への侵入が許されている権限によって、一度目は正面から入り込んでやったが、後々執務室に呼び出され、室長に加えて元帥一同から説教を受けた。クロス元帥は知らん顔でニヤニヤしながらワインを呑んでいたが、ともかくあれは二度もやりたい経験じゃない。
 おかげで教団内部の抜け道に詳しくなる始末だ。そうまでして会いに行ってやっても特にまともな話をする訳じゃない。一言二言交わして帰る。それだけだ。
 まるで捨て犬の世話でもしているような感触だった。それも野良の子犬だ。たまに気が向けば何度か頭を撫でてやって、餌をやって、それで終わりだ。でも何故か懐かれてしまう。尻尾まで振られてしまう。そんな感じだった。
 大した話をする訳ではなかったが、それでもアレンの返事にはなんだか嬉しそうな気配がありありと感じて取れた。
 おそらくあれのせいだ、彼女のあんな声を聞いて放っておけるわけがない。






「……やあ、来てくれたんですね」
 今日はアレンの方から声を掛けてきた。彼女は神田の足音を聞き取ると、ちょっとまごついたような気配をさせた後、入っても大丈夫ですよ、と言った。
 扉を開けると、部屋の中はひどい有様だった。四面の壁は乾いた血でほぼ一面赤茶色に変色していた。
 アレンは部屋の隅にぽつんと置いてあるベッドの上にいた。囚人用の鎖でベッドに四肢を拘束されていたが、鎖は大分緩んでいた。彼女自身にもう暴れるだけの力が残っていないようだった。ぐったり伏せってそのまま動かない。
「モヤシ……ッ」
「せっかくお越し下さったのに、こんなところですからお茶も出せそうにないです。お見苦しい姿で申し訳ない」
 アレンは少し笑ったようだった。その顔はすごくくたびれていた。病人着のようなものを着込んでいたが、すりきれてぼろぼろになっていた。
 彼女の身体を抱き起こすと、それは何かの冗談のように軽かった。脱力しきっているのにまるで重みがない。アレンはすまなさそうに目を伏せ、すみません、と言った。
「手を掛けさせてしまってごめんなさい。一人で起き上がれなくて」
「……お前、何をやってる」
 押し殺した声で訊くと、アレンはなんでもないことのように答えた。
「僕にできることですよ。みんなそれぞれ役割があるでしょう? エクソシストはアクマを壊す、サポーターはそのサポート。僕は僕の役割を与えられました。そんなに心配しなくたって悪いことはしてませんってば」
「そんな心配はしてない」
「おや、そうですか」
 アレンはいつも通りの軽口を叩こうとして、激しく咳込んだ。唇から零れたどろっとした血液が、彼女の手のひらを、腕を、病人着を汚した。
 アレンは僅かの間にひどく憔悴していた。
 不死者の圧倒的な生命力をそこに感じることはもうできなかった。
「ごめんな、さ……ほんとに、来てくれて嬉しいんです。貴方の声が聞こえると大分楽になれるんですよ。ありがとう神田」
 そう言って彼女はまた微笑もうとした。なんだか泣きそうな顔だった。
 神田は何とも言えずにアレンを見ていた。正直なところ、あまり見たい姿じゃなかった。あの傲慢で性根の腐ったアレン=ウォーカーがこんなに弱りきった姿を見せていると、漠然とした怒りのようなものが沸いてきた。それはアレンに対してのものじゃない。何に対してのものなのかは解らない。
 アレンは目を閉じて呼吸を整え、「もう行って下さい」と言った。
「僕に構ってたことがバレたらすごく怒られますよ」
「知ったことかよ」
「貴方ならそう言うと思ってたんですけど」
 アレンは溜息を吐いて、「ともかく長居は駄目ですよ」と言った。
「僕のせいで貴方が怒られるのとか、そういうのは嫌なんです」
「……お前はこれからどうすんだ」
「そうですね、少し眠ろうかな。その前にシャワーを浴びたいです。貴方と話してると大分調子も良くなってきたし、血を落とさないと気持ち悪い」
 アレンはそう言って、手枷から腕を引き抜いた。ごきん、と嫌な音がした。関節を外すなんて生易しいものじゃない、明らかに骨が割れた音だ。
 彼女は同じように四肢を枷から抜いて、「内緒ですよ」と言って微笑んだ。
「繋がれたままだとシャワーも浴びられないんです。兄なら無機物も透過できたのですが、僕はできそこないなので生物の肉体が限界です」
「……お前、少しは自分の身体を大事にしろ。痛いのは嫌いじゃなかったのかよ」
「まあ昔はね。今はもう気にならなくなりました。クロス元帥の例の結界も、いつ発動してるのか解らないんですよ。便利な身体になったものです――それにしても貴方に心配されるなんて、僕もお終いですね」
 そう言いながら、アレンの顔には自嘲するような気配があった。
「じゃ、さよなら。任務頑張って下さいね」
 彼女はのろのろとベッドから降りようとして、バランスを崩して頭から床に落ちた。
 神田は溜息を吐いて、倒れているアレンを抱き起こした。
「一人じゃ辛いんだろ。手伝ってやる」
「はあ……」
 アレンはぽかんとして、ちょっと赤くなり、恥ずかしそうにもごもごしながら言った。
「……気持ちは嬉しいのですが……少し恥ずかしい。その、そういうのって」
 アレンはシャワーを浴びたいらしい。そして彼女は少年らしい振舞いが多いが、これでも一応少女だった。女の子なのだ。神田は慌てて取り消した。
「……あ、ああ。すまない」
 手伝ってやるってのはつまりそういうことだ。アレンは女らしい体とは程遠かったが、だからまったく意識していないというわけでもない。
 アレンは静かに取り乱している神田にちょっと笑って、穏やかに言った。
「すみません。気を遣ってくれてありがとうございます。僕は貴方なら嫌ではないんですけれど」
「なっ」
 神田は顔を赤くして、信じられないような心地でアレンを見遣った。彼女は訳が解らなさそうな顔でぽかんとしていたが、やがて神田と同じように顔を真っ赤にした。どうやらやっと自分の言葉の意味を理解したらしいのだ。
 アレンは慌てた様子で、赤い顔のまま俯いた。
「ば、馬鹿なことを言いましたね。忘れて下さ――
 神田はさすがに硬直してしまっていたが、結局腹を決めることにした。
 アレンと、唇を合わせる。
 彼女は一瞬びくっと身体を強張らせたが、抵抗らしい抵抗もしなかった。
 おずおずと腕を伸ばして、神田の背中にぎゅっとしがみ付いた。少し震えている。
 離れた後も彼女はぽおっとした顔のままだった。
 唇を押さえて、なんなんですか、と言った。
「な、の、ノアとこんなことしていいんですか。僕、ほら、ほんとはすごく気持ち悪い怪物かもしれないですよ? その、な、中身とか。な、何やってんの?」
「お前が取り消そうとするからだろ。……言ってもわかんねーだろうが。俺もわからん」
「ぼ、僕だってわかんないです……」
「……嫌がらねーのか」
「嫌がる理由がありません。……あ、ちょっと混乱してますね神田」
「…………」
「……僕も混乱してますが。う、うわー……」
 アレンは神田の下で、床にうつ伏せになって顔を隠してじたばたしている。余程恥ずかしかったらしい。神田としてもそれに関しては全く人のことを言えなかった。思ったよりも彼女の唇は柔らかかったし、身体は小さかった。照れて混乱している姿は可愛かった。
「……お前は俺のことが好きなんだろうが」
「神田は、僕のこと好きみたいですね」
「……帰る」
「そうした方がいいです。きっとお互いのためですね」
 アレンは無理矢理冷静なことを言おうと努力しているようだったが、顔は真っ赤で、その上涙目だった。このままここにいたら何かの理性が持ちそうにない。何かはあえて考えたくない。
 部屋を出しなに、居心地は悪かったが、神田は振り向いて言い置いておいた。
「今お前が言ったことだが、……否定は、しない。じゃあな」






 扉を閉めてちょっと経った辺りで、部屋の中から「うあああ」というアレンの切羽詰まったようなうめき声が聞こえてきた。何だか予期しないうちに、非常に恥ずかしい事態になったような気がする。






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